不幸を呼ぶ男 Case.3
第四章:背水の賭け(はいすいのかけ)

第四章:背水の賭け(はいすいのかけ)



【黒川邸・書斎】

黒川は
一人、書斎で、思考の海に沈んでいた
彼女は、一つの結論に達した
これは、賭けだ、と
賭けの内容は二つ
一つは
大野勇次郎を、味方に取り込むこと
元は、憎い敵
だが、今は、この盤上で、唯一、信用できるかもしれない人間
そして、もう一つは
その、大野勇次郎と
どうやって、敵に見られずに、接触するか
黒川:(……連絡する方法)
黒川:(電話は、盗聴されている可能性が高い)
黒川:(直接、会うしかない)
黒川:(だが、どうやって…)
彼女は、決断した
あの人の力を、使うしかない、と
今の、この状況
運転手も、秘書も、信用しない方がいい
彼女は、自らのスマートフォンで
一台の、タクシーを、ネットで手配した
数分後
タクシーが、豪邸の前に到着する
黒川は、誰にも告げず
一人、家を抜け出し、そのタクシーに乗り込んだ
車が、走り出す
彼女は、バックミラーとサイドミラーで
執拗なまでに、後方を確認する
尾行は、いない
だが、見えない敵の視線を
背中に、感じていた
タクシーは
永田町の、ある、古い、古い邸宅の前で
静かに、停まった
高い塀に囲まれ
中の様子は、一切窺い知れない
表札も、出ていない
ここが
あの、伝説のフィクサー
渡辺辰雄が、住む家
黒川は
意を決して
その、重い門を、叩いた。

黒川が、重い門を叩くと
しばらくして
ギィと古びた音を立て小さな扉が開いた
顔を出したのは
歳をとった執事のような男だった
その目は感情がなく
まるで能面のようだった
黒川:「突然申し訳ありません」
黒川:「渡辺先生に緊急でお会いしたい儀があり参りました」
黒川:「民政党の黒川皐月です」
使用人は
黒川の顔をじろりと見ると
一言だけ言った
使用人:「先生は今お休みです」
そして
扉を閉めようとする
黒川:「待ちなさい」
黒川:「『大野勇次郎の件で』とそうお伝えください」
その言葉に
使用人の動きが止まった
彼は再び黒川の顔を値踏みするように見ると
「少々お待ちを」と言い残し
扉の奥へと消えていった
長い長い沈黙
黒川は
ただ静かに待った
やがて
使用人が戻ってきた
使用人:「……お会いになる、と」
使用人:「どうぞこちらへ」
黒川は
その使用人に続き
薄暗くどこまでも続くかのような
長い長い廊下を歩いた
そして
一つの襖の前で足を止める
使用人が静かにその襖を開けた
そこは書院造の広大な和室だった
部屋の中央で
一人の老人が座っている
渡辺 辰雄
齢九十を超えているはずだ
その体は枯れ木のように痩せ細っている
だが
その皺だらけの瞼の奥から
黒川を射抜くその両の眼光は
若い頃と何一つ変わらない
鋭い鷲のような光を宿していた
彼はかつて
この国の歴代の総理たちを
陰で操り時には切り捨ててきた
日本の本当の「影の王」
今はもう表舞台には立っていない
しかし彼の一声で
今もなお派閥の力関係が
一夜にしてひっくり返る
その影響力は
全ての政党官僚
司法メディア
そして時には裏社会にまで及んでいる
彼を敵に回すことは
この国で生きていくことを諦めるのと
同義だった
その伝説の男が
静かに口を開いた
渡辺:「……黒川の小娘か」
渡辺:「こんな忙しい折に何の用だ」

【渡辺邸・書斎】

その声は
枯れているが
凄まじいまでの圧を
持っていた
黒川は
畳に、両手をつき
深々と、頭を下げた
黒川:「夜分に、申し訳ありません」
渡辺:「……まぁ、いい」
渡辺:「そこに、座れ」
渡辺が、顎で、目の前の座布団をしゃくる
黒川は、静かに、そこに正座した
渡辺:「で、用件はなんだ」
渡辺:「くだらん派閥争いの話なら、聞かんぞ」
黒川は
覚悟を決めた
そして
この数日間で起きた、全ての異常事態を
ありのままに、語り始めた
テレビ討論での、大野勇次郎との腹の探り合い
その夜、自室のデスクに突き刺さっていた、一本のナイフ
そして、翌日、大野勇次郎が、不可解な形で総裁選を辞退したこと
その裏に、自分たちも知らない、謎の「第三者」がいる可能性が高いこと
黒川は
一切の、感情を交えず
ただ、事実だけを、淡々と報告した
全てを聞き終えた渡辺は
しばらく、目を閉じていた
まるで、眠っているかのようだ
だが、黒川は、動かない
ただ、静かに、その次の言葉を待つ
やがて
渡辺は、ゆっくりと、目を開けた
渡辺:「……勇も、腑抜けになったな」
渡辺:「父親を殺した、あの頃の度胸は、どこへ行った」
その、あまりに平然と、禁忌に触れる言葉
黒川は、息を呑んだ
この男は、やはり、全てを知っている
渡辺は
ゆっくりと、立ち上がると
部屋の隅にある、黒電話へと向かった
そして
受話器を取り、ダイヤルを回す
数回の、コール音
電話が、繋がったようだ
渡辺:「……ワシだ」
渡辺:「……ああ」
渡辺:「今すぐ、ここへ来い」
渡辺:「言い訳は、聞かん」
それだけ言うと
渡辺は、相手の返事も待たずに
ガチャン、と、受話器を置いた
そして
黒川に、向き直る
渡辺:「……すぐに、来る」
渡辺:「お前も、ここにいろ」
渡辺:「三人で、話をする」
その、有無を言わさぬ、絶対的な命令
黒川は
ただ、深々と、頭を下げることしか
できなかった。

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