不幸を呼ぶ男 Case.3
【深夜・都内走行中の車内】
大野勇次郎は
後部座席で、固く目を閉じていた
だが、眠気など、微塵も感じない
脳が、焼き切れるほど、回転し続けている
勇次郎:(……一体、何なんだ、昨夜からの、この地獄は)
昨夜
最強の殺し屋に、銃口を向けられた
そして今日
全てのキャリアを賭けた、総裁選を、辞退した
その、屈辱的な記者会見
勇次郎:(……何回、冷や汗をかけば、いいんだ…)
彼は、心の中で、叫んだ
やっと、全てが終わり
これから、どうやって、この状況を立て直すか
そう、考えていた、矢先だった
あの、渡辺辰雄からの、電話
勇次郎:(……なぜ、あの人が、今になって動く?)
勇次郎:(あの、殺し屋と、関係があるのか?)
勇次郎:(それとも……黒川の、差し金か?)
分からない
何も、分からない
自分が、完璧にコントロールしていたはずの
ゲームの盤面が
今や、得体の知れない、何者かの手によって
完全に、ひっくり返されている
その、絶対的な無力感が
彼を、苛んでいた
やがて
車は、あの、古い邸宅の前に着いた
渡辺辰雄の、城だ
勇次郎は
意を決して、車を降りた
そして、自らの手で
その、重い門を、叩いた
ギィ、と
古びた音を立てて、小さな扉が開く
昨日、黒川を迎えたのと、同じ
あの、能面のような使用人が
立っていた
使用人は
勇次郎の顔を、一瞥すると
何も、言わなかった
ただ
中へ入れと、顎でしゃくっただけだった
勇次郎は
その、使用人に続き
薄暗く、そして、どこまでも続くかのような
長い、長い、廊下を歩いた
そして
あの、広大な和室の、襖の前で、足を止める
使用人が、静かに、その襖を開けた
【渡辺邸・書斎】
襖が開け放たれ
大野勇次郎が、部屋の中へと通された
そして
彼は、その部屋の中に
信じられない光景を、見た
渡辺辰雄の、その、すぐ目の前に
ライバルであるはずの
黒川皐月が
静かに、正座している
まるで、初めから
勇次郎が、ここへ来ることを
知っていたかのように
勇次郎は
驚愕に、目を見開いた
そして、すぐに、全てを理解した
この女が、この影の王に、泣きついたのだと
勇次郎は
皮肉と、侮蔑を込めて、言った
勇次郎:「ほう。殺し屋を雇うとは」
勇次郎:「随分と、えげつない手を、使ってくれる」
その言葉に
黒川の、氷のような表情が
初めて、揺らいだ
渡辺:「……勇次郎」
渡辺:「いいから、そこに座れ」
影の王の、静かな一言
勇次郎は、はっと我に返ると
深々と、頭を下げた
勇次郎:「……夜分に、申し訳ありません、先生」
彼は、黒川の隣に、正座した
黒川:「……やはり、そういうことでしたのね」
黒川が、ぽつりと呟いた
彼女は、勇次郎を、値踏みするように見ている
黒川:「あなたも、私と同じように」
黒川:「殺し屋に、脅された、と」
勇次郎:「……は?」
今度は、勇次郎が、困惑する番だった
渡辺が、静かに、口を開いた
渡辺:「勇次郎。お前の元へ行った殺し屋は」
渡辺:「『黒川に雇われた』と、そう、言ったのか?」
勇次郎:「……いえ。ですが、状況から考えても、彼女しか…」
渡辺:「……黒川」
渡辺:「お前の元へ来た、脅迫状を、見せてやれ」
黒川は、懐から
あの、ナイフに貫かれていた、メッセージカードを取り出し
勇次郎の前に、置いた
勇次郎は、その、美しい筆跡を見た
そして、凍り付いた
これは、俺の指示ではない
俺の知らない、誰かが、黒川を脅迫している
勇次郎:(……じゃあ、俺を脅しに来た、あの殺し屋は)
勇次郎:(黒川が、雇ったわけでは、ない…?)
では、誰が?
一体、誰が、この二人を
同時に、脅迫している?
渡辺が、静かに、問うた
渡辺:「お前たち二人が、総裁選を辞退して」
渡辺:「……一番、得をする人間は、誰だ?」
その問いに
黒川と、勇次郎は
同時に、同じ答えに、たどり着いた
黒川:「……速水…」
勇次郎:「……創…!」
二人は
初めて
敵としてではなく
同じ、獲物を狙う、二匹の獣として
互いの、目を、見た。