私ばかりが本気だと思っていたら、完璧上司のほうが重かった件



「佳穂……!」

 その日の業務終了後、バッグを持って席を立った佳穂を雅芳はたまらず追いかけた。自分が呑気にゆっくりと距離を縮めようとしている間に、彼女はほかの男に心惹かれてしまったのではないか――そんな不安に駆られたからだ。

 自社ビルを出たところでその背中を視界に捉え、名前を呼ぶと、彼女は立ち止まり、少しの間を置いて振り向いた。

「こんな誰が聞いているか分からない場所で、そんな呼び方をしないでください」

 そう口にして、ほんのかすかに眉を寄せる。控えめな彼女にしてはめずらしい表情だった。

 佳穂が立ち止まっているうちに素早く追いついた雅芳はその場で大きく息を吐く。

「すまない。――けど、こうやって無理にでも引き止めないと君は、僕と話もしてくれないだろう?」

 メッセージアプリのやりとりでは、すみませんと繰り返すだけで直接会う機会すら与えてくれないことを暗に指摘すると、佳穂は困ったように眉を下げた。

「とりあえず移動しよう」

 許可を得ようとするかのように雅芳が差し出した手を佳穂はしばし見つめ、しぶしぶそこに自身の手を重ねた。

 やってきたのは隠れ家的バーである。
 会社からそれほど離れているわけではないが、地下にあって入り口が分かりにくいため、知る人ぞ知る、という雰囲気の店だ。ここなら知り合いと出くわす可能性も低いだろう。

 店内の奥まった場所にあるテーブル席に向かい合って座り、互いに適当な銘柄のビールを注文した。

 こんな状況では酒を呑む気持ちにもなれないので、雅芳は当初ノンアルコールのなにかを頼もうとしたのだが、「いえ、お酒を呑みましょう」と言い出したのは佳穂だった。彼女は特に酒が好きというわけでもないはずだが、どこか意を決したような目をしているところを見ると、酒の力を借りてなにかを打ち明けようとしてくれているのかもしれない。

 やがて小麦色の液体が波々と注がれた二人分のグラスが届き、とりあえずそれぞれに口をつける。
 そうして互いにグラスを置くと、雅芳は真っ先に頭を下げた。
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