エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
 その夜、正俊さんは帰宅しなかった。昨日までなら、仕事が忙しいんだなと心配していた。でもその夜は不安と疑念でいっぱいだった。

 違う、正俊さんはそんなひとじゃない。あの女のひとは、仕事関係のひととか、きっとそういう誰かだよ。

 何度も何度も自分に言い聞かせて、眠れない夜を無理やり眠った。そうして朝がやってきて、ひとりきりのベッドで目を覚まして、仕事に行く準備を整えた。

 玄関で、履き古したパンプスにつま先を差し込んだ。そのとき、目の前の扉の鍵がかちゃりと動いた。ドアがひらいて、

「真理菜さん……」

 スーツ姿の正俊さんが帰宅した。

「……おはようございます」

 思わず、目を逸らしてしまった。だけど正俊さんはいつもと同じように、私に優しく笑いかける。

「おはよう。やっと会えて嬉しい」

 急いで帰ってきて良かった――と続いた彼の言葉が、偽物だとは思えなかった。だから私は彼の眼差しを見返して、普段通りに笑い返す。

「私も、会えて嬉しいです」

 正俊さんは、私の頬にそっと触れた。
 そして、高い身長を屈めて、くちびるに触れるだけのキスをする。

 きっと、私が昨日見たあなたは何でもない。あの女のひとはやっぱり、仕事の関係者とかそういうひとだ。

 たとえば、もしもあの女性が帰国子女だったりしたら、距離感が少し違うのかもしれないし。

 そう結論付けて、

「行ってきますね」

 普段通りに、正俊さんに微笑んだ。正俊さんは「行ってらっしゃい」と私を送り出した。

 エレベーターに乗って、ロビーまで下りた。オートロックのガラスの扉を潜ったところで、あ、とスマホを忘れて出てきたことに気づく。

 時間に余裕はなかったけれど、スマホを持たずに仕事に行くわけにはいかない。

 駆け足でエレベーターホールに戻った。ちょうど、エレベーターで下りてきた居住者がいたので、入れ違いで乗り込む。14階まで上がって、角部屋の1401号室まで小走りで戻った。

 玄関には、正俊さんの靴があった。スマホはリビングに置いていたはずだから、リビングに向かった。
 そうしたら、ドアの隙間から正俊さんの声が聞こえてきた。
< 101 / 117 >

この作品をシェア

pagetop