エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
私たちは、ロビーラウンジで向かい合った。二人掛けのソファ、私の隣に美しい姿勢で腰掛けた正俊さんは、ローテーブルにA4サイズの書類を置いた。
その書類には、『音楽大学における組織的不正入学の件』とタイトルが記されていた。
書類を見たお姉ちゃんとお母さんの表情が強張る。
正俊さんは、お姉ちゃんに視線を向けて微笑んだ。
「絢音さんは、R音楽大学をご卒業されたと話してくださいましたね。著名な音楽家を何人も輩出している名門の音大だ」
「え、……ええ。そうですけど」
お姉ちゃんは声をふるわせた。正俊さんは微笑んだまま、柔らかに聞こえる声で続ける。
「一般的に、音楽大学を始めとした芸術系の大学は、在学中の費用が高額になる傾向があります。国立であれば大学に納める学費自体はある程度抑えられますが、それでも楽器や消耗品の購入、個人レッスン代に発表会の衣装代など、少なくない費用がかかる。私立大学であれば負担はさらに上がります」
正俊さんに視線を向けられた芙美子さんが、ぎゅっと眉根を寄せて視線を逸らした。正俊さんは、またお姉ちゃんに視線を向けた。
「あなたが卒業したR音楽大学は私立大学。卒業まで、それなりに費用がかかったことでしょう」
「さ……さあ。ママが払ってくれたから」
お姉ちゃんはさっと視線を逸らした。なるほど、と頷いた正俊さんは、テーブルに置かれたコーヒーのカップを手に取った。
美しい所作でブレンドのコーヒーを飲んだあと、ソーサーにカップを置きながら、テーブル上のA4の書類にさりげなく視線を向けた。
芙美子さんとお姉ちゃんがわずかに身じろぐ。
眼差しを上げた正俊さんは、静かな声で言った。
「私立の音楽大学における4年間の学費の相場は約600万。楽器代その他諸々の支出があって、施設運営費や寄付金の負担があるとしても……通常、4年間で1億円はかからない」
正俊さんはひとつまばたきをしてから、今度は私に眼差しを向けた。私に向けられた眼差しは、私を安心させようとするような丁寧で慎重なものだった。
「真理菜さん。真理菜さんのお父様があなたに残してくださった保険金はいくらでしたか?」
私は、正俊さんがテーブルに置いたA4の書類を見つめる。
『音楽大学における組織的不正入学の件』
その文字を遠ざけようとするように目を閉じてから、答えた。
「1億円と聞いていました」
――どくん、と胸の内で低い心音が響く。
正俊さんは微笑んだまま、A4の書類に指先を添えた。
「これは、俺の知り合いから聞いた話です。彼は新聞社の人間で……明日の朝刊で、音楽大学における組織的不正入学の件が報道されると言っていました。事件は、匿名の通報と国税庁の調査で明らかになった」
「こ、……この子がっ、音大に不正入学をしたと言いたいの!?」
芙美子さんが声を荒らげた。「不正入学をされたんですか?」と、正俊さんが目を瞬いて聞き返す。
何かを言いかけたまま言葉を失った芙美子さんに、正俊さんが優しい声で言った。
「俺は何も知りませんが、ある報道機関は不正入学者のリストを入手しているそうです。そして、それを公表すると息巻いている」
お姉ちゃんが顔面蒼白になった。お姉ちゃんは名門R音楽大学卒業生であることを一つの売りにして、インフルエンサーとして活躍している。
もしも、本当にお姉ちゃんが不正入学をしたのなら、お姉ちゃんの人気に重大な影響が出てしまう。
「そんなこと……っ」
芙美子さんが怖い顔で書類を掴み取る。それを破ろうとしたけれど、正俊さんに視線を向けられて力なく手離した。
今この場で書類を破ったところで報道は止められない。
芙美子さんとお姉ちゃんが何も言えなくなったところで、正俊さんが言った。
「真理菜さんの家の権利書と、売買契約書を渡してください。そして、真理菜さんに対して十分な謝罪を」
まるで、凪の水面に雨のしずくが落ちるときのように、静かで明瞭な声だった。
正俊さんは笑みを消して、芙美子さんとお姉ちゃんに選択肢を提示した。
「あなた方が俺の申し出を受け入れてくれるなら、俺はこの件に関わる関係者のリストが公表されないよう全力を尽くします」
芙美子さんもお姉ちゃんも、怯えた表情で正俊さんを見つめていた。
そんなふたりをあやすように、正俊さんが声を和らげた。
「俺個人としても、関係者の氏名が徒に報道されることに対して懸念を抱いています。報道の自由は守られるべきですが、報道の自由をもって個人のプライバシーが軽んじられるべきではない」
緊張がほんの束の間弛んで、芙美子さんの視線がゆっくりと動いた。
「あなたが言った条件を呑んだら、その……本当に、そのリストは公表されないのね……?」
うろうろと視線を彷徨わせる芙美子さんに対して、正俊さんは揺るぎのない眼差しで答えた。
「俺は国家公務員ですから。合意形成は得意です」
自信に裏打ちされた表情で彼は笑った。