エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
正俊さんは、19時前に帰宅した。お父様の病気のことなんてまるで聞かなかったかのように、普段通りの彼だった。今日のメニューの、キーマカレーを一緒に食べた。そうして食器の片付けを済ませたあとに、正俊さんに声を掛けた。
「少し、話してもいいですか?」
もちろん、と彼は応じてくれた。私は彼に微笑んで、ソファの足元に置いていたトートバッグから、2冊の本を取り出した。
NDC分類記号123『論語』。そして、分類記号459『鉱石図鑑』。
これらをローテーブルに置いて、正俊さんに向かって告げる。
「私は司書です。だから、レファレンスをします」
「えっ……?」
ささやかに戸惑った様子の正俊さんに眼差しで応じて、まずは『論語』をひらく。『論語』は、高名な思想家である孔子の言葉を記録した儒教の経典。その中の一節を読み上げる。
「子曰わく、力足らざる者は中道にして廃す。今汝は画れり」
正俊さんの眼差しが揺れる。これは、正俊さんのお父様が正俊さんを『見放した』ときに、お父様が引用した言葉だ。
「孔子のこの言葉の意味は、正俊さんが前に言っていた通りです。――実力のない者はやるべきことを途中で放棄する。今、おまえは努力を諦めたのだ」
私は正俊さんの目を見つめて、「でも」と続ける。
「この一節には、前置きがあります」
本に視線を落として、目的の一節を読み上げる。
「冉求が曰わく……」
冉求が曰わく、子の道を説ばざるには非ず、力足らざればなり。
冉求が言った、先生の教えを喜ばないわけではありませんが、私には力が足りないのです。
「正俊さんのお父様が引用した『力足らざる者は中道にして廃す。今汝は画れり』の言葉は、先生である孔子が、弟子である冉求に対して掛けた言葉です。自分には力がないと言った弟子に対して、彼への励ましの意味で」
だから、と続ける声が上擦る。
「だから……お父様は、正俊さんを見放したわけじゃありません。挫折があったとしても、努力を諦めなければ道がひらけるって、そう言いたかったんだと思います」
正俊さんは大きく目を見ひらいた。ややあって視線を大きくふるわせて、
「そんな……だけど、」
ひどく困惑したように呟いた。
私は彼を真っ直ぐに見つめる。そうして、もう一冊の『鉱石図鑑』をひらいた。
「このページを見てください」
正俊さんはひとつ息を吐いたあとに、まるで怖いものを覗き込むように図鑑を見た。
「アイオライト。ウォーターサファイアとも呼ばれる綺麗な紫色の石。正俊さんのネクタイピンに嵌められている石です」
ひらいたページの、下部の一文を手のひらで示す。
「石言葉は、人生の道標」
は、と正俊さんが呼吸を止める音がした。彼は鉱石図鑑のページに指先で触れて、次の刹那に目元を手のひらで覆った。
お父様は、正俊さんに人生の道標がもたらされることを願った。彼が目指した大学じゃなくても、彼が目指した場所じゃなくても、彼自身の人生が努力によってひらけるように。
正俊さんは床に膝をついた。それでも、目を潤ませても、涙を流すことはしなかった。
「真理菜さん。……ありがとう」
掠れた声でそう言った彼は、いつかのように私を抱きしめた。
「少し、話してもいいですか?」
もちろん、と彼は応じてくれた。私は彼に微笑んで、ソファの足元に置いていたトートバッグから、2冊の本を取り出した。
NDC分類記号123『論語』。そして、分類記号459『鉱石図鑑』。
これらをローテーブルに置いて、正俊さんに向かって告げる。
「私は司書です。だから、レファレンスをします」
「えっ……?」
ささやかに戸惑った様子の正俊さんに眼差しで応じて、まずは『論語』をひらく。『論語』は、高名な思想家である孔子の言葉を記録した儒教の経典。その中の一節を読み上げる。
「子曰わく、力足らざる者は中道にして廃す。今汝は画れり」
正俊さんの眼差しが揺れる。これは、正俊さんのお父様が正俊さんを『見放した』ときに、お父様が引用した言葉だ。
「孔子のこの言葉の意味は、正俊さんが前に言っていた通りです。――実力のない者はやるべきことを途中で放棄する。今、おまえは努力を諦めたのだ」
私は正俊さんの目を見つめて、「でも」と続ける。
「この一節には、前置きがあります」
本に視線を落として、目的の一節を読み上げる。
「冉求が曰わく……」
冉求が曰わく、子の道を説ばざるには非ず、力足らざればなり。
冉求が言った、先生の教えを喜ばないわけではありませんが、私には力が足りないのです。
「正俊さんのお父様が引用した『力足らざる者は中道にして廃す。今汝は画れり』の言葉は、先生である孔子が、弟子である冉求に対して掛けた言葉です。自分には力がないと言った弟子に対して、彼への励ましの意味で」
だから、と続ける声が上擦る。
「だから……お父様は、正俊さんを見放したわけじゃありません。挫折があったとしても、努力を諦めなければ道がひらけるって、そう言いたかったんだと思います」
正俊さんは大きく目を見ひらいた。ややあって視線を大きくふるわせて、
「そんな……だけど、」
ひどく困惑したように呟いた。
私は彼を真っ直ぐに見つめる。そうして、もう一冊の『鉱石図鑑』をひらいた。
「このページを見てください」
正俊さんはひとつ息を吐いたあとに、まるで怖いものを覗き込むように図鑑を見た。
「アイオライト。ウォーターサファイアとも呼ばれる綺麗な紫色の石。正俊さんのネクタイピンに嵌められている石です」
ひらいたページの、下部の一文を手のひらで示す。
「石言葉は、人生の道標」
は、と正俊さんが呼吸を止める音がした。彼は鉱石図鑑のページに指先で触れて、次の刹那に目元を手のひらで覆った。
お父様は、正俊さんに人生の道標がもたらされることを願った。彼が目指した大学じゃなくても、彼が目指した場所じゃなくても、彼自身の人生が努力によってひらけるように。
正俊さんは床に膝をついた。それでも、目を潤ませても、涙を流すことはしなかった。
「真理菜さん。……ありがとう」
掠れた声でそう言った彼は、いつかのように私を抱きしめた。