エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
「……っ、すみません……」

 泣いている顔を見られたくなくて、咄嗟に俯いた。
 手のひらで顔を覆って、嗚咽を噛み殺そうとしていると、正俊さんの温もりが近づいた。

「嫌だったら、すみません」

 そっと、控えめな力加減で抱きしめられた。驚いたけれど、私は彼を拒まなかった。とくとくと響く優しい心音がそばで聞こえて――お父さんに大切に愛されていた日々の、優しくて美しかった世界を思い出した。

「私は……本が好きなんです」

 遠い昔に捨てられてしまった本棚。あの日の絶望。
 ぎゅっと目を瞑って、涙に濡れた声で吐き出したら、正俊さんが優しい声で言った。

「知っていますよ」

 たとえば、午後に静かに降る雨みたいに、私の心を落ち着かせる声だった。

 私は正俊さんに抱きしめられたまま泣いた。ひどく遠い昔に――子供の頃に戻ったみたいに、思い切り泣いた。
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