エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
きぃ、と重々しい音をさせて扉があいた。堂々とした立ち居振る舞いの紳士と一緒に、紗良さんが入室してきた。紳士は――文部科学省事務次官は全員の前で礼をして、にこやかに話し始めた。
「本日はこちらにおります娘の紗良のため、万障お繰り合わせにてお集まりいただき、心より感謝を申し上げます」
事務次官は、終始和やかなトーンで話した。――紗良は、先日は勤めております商社で、フランス語の通訳としてCEOにご同行するというお役目を頂戴し――。
そこで会場から拍手が起こって、紗良さんが恐縮したように頭を下げる。事務次官は優しい眼差しで紗良さんを見つめてから、娘の人生に携わってくださった全ての皆様に感謝を申し上げますと言って、話を締めた。
続いて紗良さんの挨拶があって、彼女はお父様の言葉をなぞり――、
「29年目となるわたくしの人生に携わってくださった方……皆様がわたくしの大切な先生です」
凛とした声でそう言って、深く頭を下げた。とても優秀で、とても謙虚なひとなのだと思った。
挨拶が終わると、先程紗良さんが言った通りに、会場の雰囲気は一気に和やかになる。立食形式のパーティーだから、各々が立ち歩きながら会話を楽しみ、軽食とグラスのシャンパンを嗜んでいる。
そのさなかで、私はひとり緊張していた。もしかしたら正俊さんも緊張していたのかもしれないけれど、そんな様子は一切見て取れなかった。
正俊さんのエスコートで、私は事務次官と対面した。「お疲れ様です」と事務次官に挨拶をした正俊さんは、丁寧に会釈をする。
「本日はご招待いただき、誠にありがとうございます」
「ああ……こちらこそ、きみが来てくれて嬉しいよ」
にこやかに笑った事務次官が、私のほうへさりげなく視線を向ける。正俊さんは心得たように、私を手のひらで示して紹介した。
「先日お話をいたしました。私の婚約者の、広瀬真理菜さんです」
広瀬真理菜ですと自分でも名乗って、私は事務次官に会釈をする。事務次官は大らかに笑って、私に右手を差し出した。
「初めまして。結城くんの上司の、篠宮と申します」
「あ……光栄です……っ」
咄嗟に口走った言葉が正解なのかわからないまま、両手を出して事務次官の握手に応じる。手を離す正しいタイミングもわからなくて、弱く控えめに握ってから慄くように離した。
「結城くんが出向していた、東都大学の付属図書館に勤務されていると聞いていますが?」
「は……はい。おっしゃる通りです」
「司書の仕事は大変でしょう?」
「はい……でも、楽しいことも多いです」
にっこりと笑みを深めた事務次官は、「それは素晴らしいことです」と穏やかな声で言った。
「あなたはとても優秀な方なのでしょう。現状、制度に課題が多い司書という職種で、限られた立場を掴んだというだけでも、それがわかります」
あ、と私は声を取り落とした。事務次官は、私が正規雇用の司書だと勘違いをしている。
不安定に瞳を揺らす私の左手で、プリンセスカットの指輪が輝いている。私がただの非常勤職員だとわかってしまったら、正俊さんの名誉に傷がついてしまう。
困窮する私に、事務次官はまた大らかに笑った。
「結城くんのことは、うちの婿になってくれるよう随分と口説いたんだが……諦めるしかありませんね」
非常に残念ですと嫌味なく笑う事務次官と相対しながら、自分の足元ががらがらと崩れてゆくような感覚に陥った。
「本日はこちらにおります娘の紗良のため、万障お繰り合わせにてお集まりいただき、心より感謝を申し上げます」
事務次官は、終始和やかなトーンで話した。――紗良は、先日は勤めております商社で、フランス語の通訳としてCEOにご同行するというお役目を頂戴し――。
そこで会場から拍手が起こって、紗良さんが恐縮したように頭を下げる。事務次官は優しい眼差しで紗良さんを見つめてから、娘の人生に携わってくださった全ての皆様に感謝を申し上げますと言って、話を締めた。
続いて紗良さんの挨拶があって、彼女はお父様の言葉をなぞり――、
「29年目となるわたくしの人生に携わってくださった方……皆様がわたくしの大切な先生です」
凛とした声でそう言って、深く頭を下げた。とても優秀で、とても謙虚なひとなのだと思った。
挨拶が終わると、先程紗良さんが言った通りに、会場の雰囲気は一気に和やかになる。立食形式のパーティーだから、各々が立ち歩きながら会話を楽しみ、軽食とグラスのシャンパンを嗜んでいる。
そのさなかで、私はひとり緊張していた。もしかしたら正俊さんも緊張していたのかもしれないけれど、そんな様子は一切見て取れなかった。
正俊さんのエスコートで、私は事務次官と対面した。「お疲れ様です」と事務次官に挨拶をした正俊さんは、丁寧に会釈をする。
「本日はご招待いただき、誠にありがとうございます」
「ああ……こちらこそ、きみが来てくれて嬉しいよ」
にこやかに笑った事務次官が、私のほうへさりげなく視線を向ける。正俊さんは心得たように、私を手のひらで示して紹介した。
「先日お話をいたしました。私の婚約者の、広瀬真理菜さんです」
広瀬真理菜ですと自分でも名乗って、私は事務次官に会釈をする。事務次官は大らかに笑って、私に右手を差し出した。
「初めまして。結城くんの上司の、篠宮と申します」
「あ……光栄です……っ」
咄嗟に口走った言葉が正解なのかわからないまま、両手を出して事務次官の握手に応じる。手を離す正しいタイミングもわからなくて、弱く控えめに握ってから慄くように離した。
「結城くんが出向していた、東都大学の付属図書館に勤務されていると聞いていますが?」
「は……はい。おっしゃる通りです」
「司書の仕事は大変でしょう?」
「はい……でも、楽しいことも多いです」
にっこりと笑みを深めた事務次官は、「それは素晴らしいことです」と穏やかな声で言った。
「あなたはとても優秀な方なのでしょう。現状、制度に課題が多い司書という職種で、限られた立場を掴んだというだけでも、それがわかります」
あ、と私は声を取り落とした。事務次官は、私が正規雇用の司書だと勘違いをしている。
不安定に瞳を揺らす私の左手で、プリンセスカットの指輪が輝いている。私がただの非常勤職員だとわかってしまったら、正俊さんの名誉に傷がついてしまう。
困窮する私に、事務次官はまた大らかに笑った。
「結城くんのことは、うちの婿になってくれるよう随分と口説いたんだが……諦めるしかありませんね」
非常に残念ですと嫌味なく笑う事務次官と相対しながら、自分の足元ががらがらと崩れてゆくような感覚に陥った。