エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
 私は、おそらくは役目を全うできた。ちゃんと、正俊さんが紗良さんとの結婚を断るための口実になれた。でも――本当にこれでよかった?

 私の胸には不安がぐるぐると渦巻いていて、柔らかな光が差し込むパーティー会場で笑っていることが苦しくなった。だから会場を離れる口実にお手洗いを借りた。廊下の突き当たりにあるお手洗いは、ホテルのパウダールームのように洗練されていた。

 冷たい水で手を洗って、鏡を見ながらモーヴピンクのリップを塗り直す。パールがきらめくリップはちゃんと綺麗。でも、私はちゃんと綺麗に笑えてる?

 鏡に映り込む私の眼差しが揺れた。不安から目を背けるように、ぴかぴかの鏡から視線を逸らす。

 ハンカチとポーチをぎゅっと握りしめてお手洗いを出た。ぱたん、と背中側で扉が閉まる。つややかに磨かれた廊下を歩く。会場へ戻るつもりだったのに、行き先を遮るようにこちらへ歩み出た人影があった。

「神楽坂さん……」

 自分の表情が固くなったのがわかった。彼は私に対して丁寧で友好的だ。それなのに、面と向かい合っていると言いようのない不安が押し寄せてくる。

 慎重に彼を見つめる私に、神楽坂さんが微笑みかける。

「気疲れをされていませんか」

「あ……いえ、大丈夫です」

 伏し目がちになりながら答えると、彼はこちらへ一歩近づいた。

「それならよかった。昔からの顔馴染みばかりなので、必然的に内輪の話になってしまいます。あなたにはどうにも申し訳なくて」

 神楽坂さんの言葉は優しい。でも、緩やかに圧をかけられているように感じるのはどうして。

「すみません……お気遣いをしてくださって。でも、みなさん優しいからそんなことはありません」

 当たり障りのない対応で会話を終わらせようとした。だけど、私を真っ直ぐに見据えた彼がそれを許さなかった。

「本来なら、結城があなたを気遣うべきだ」

「えっ?」

「ひとり、泣きそうな顔で会場から離れたあなたを」

 そう畳みかけられた途端に視線が揺らぐ。会場では、ちゃんと笑っていたはずなのに。

「……正俊さんはいつも私を気遣ってくれます」

 お手洗いに行くと声を掛けたときも、体調が悪くなったのではないかと案じてくれた。それに対して、大丈夫ですと笑顔で返したのは私だ。

 正俊さんは、私の言葉を信じてくれただけ。

「本当に、大丈夫ですから」

 言い置いて、彼とすれ違った。そうしたら、背中に声が掛かった。

「心配ですね、お父様のこと」

 ――お父様?

 何のことかわからなかったけれど、不穏な雰囲気を感じて振り返ってしまう。

 神楽坂さんは静かな声で続けた。

「俺も、晃市(こういち)さんに会った際に耳にしただけですが」

 こういちさん、というのも誰のことかわからず戸惑っていると、神楽坂さんは見定めるような視線で私を見た。

「結城のお父様の話ですよ」

 え、と目を見ひらく私に彼が続ける。

「晃市さんというのも、結城のお兄様です」

「正俊さんの……」

「すみません、ご存じかと思っていたので」

 緩やかにまばたきをした彼は、鈍く目を眇めて言った。

「結城は何も話していないんですね。あなたは婚約者なのに」

 ――どくん、と私の胸の内で低い心音が響く。

 すっと胸が冷えていって、途方もない心細さを感じたそのとき、丁寧で軽やかな足音が聞こえた。
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