エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
タクシーに乗って、マンションまで帰った。タクシーの中で、彼は私を気遣う言葉をいくつも掛けてくれたけれど、私は最低限の返事をすることしかできなかった。
マンションに着いて、私たちは言葉なくリビングへと向かった。
「着替えてきます」
正俊さんにそう言って、寝室へ下がろうとした。
だけど、彼に腕を掴まれた。
それでも振り返らずにいたら、ゆっくりと腕を手離されて、彼が申し訳なさそうな声で言う。
「すみません……。知り合いもいない中で、気を遣わせてしまいましたよね」
いえ、と私は弱く首を振った。正俊さんの方を見ないまま、口をひらく。
「私の役目です。300万の奨学金を引き受けてもらったんだから、当然やらなきゃいけないことでした」
そう言ったら、彼が押し黙る気配がした。世界が停滞したような沈黙、そのさなかに、カチリと秒針の響きが落ちてゆく。
呼吸が不安定に揺らいだ。目の奥が熱くなって、それをごまかすように口走った。
「どうして、紗良さんとの結婚を断ってしまうんですか」
正俊さんは何も答えない。憤慨する心地になって、言い募る。
「綺麗で優秀で、とっても優しくて……あんなに素敵な方なのに」
アイシャドウがきらめく瞼を伏せて、ほんの少し切なげに笑った紗良さん。――先輩が愛しているのは真理菜さん。父だって、本当はわかっているのよ。
紗良さんはそう信じているけれど、私たちの関係は真っ赤な嘘だ。
もしかしたら紗良さんの恋は、本当なら叶っていたのかもしれないのに。
ぎゅっとくちびるを噛みしめたとき、正俊さんが言った。
「彼女は事務次官のご令嬢です。俺は、俺にとってのステークホルダーと結婚するつもりはありません」
端的で、頑なな声だった。
正俊さんは私に対していつも穏やかだったから、その落差に息を呑む。
ステークホルダー。意味は、利害関係者。前に、彼と公園を散歩した日に教えてもらった。紗良さんは正俊さんにとって利害関係者だから、紗良さんと結婚するつもりはないのだという回答。
正俊さんが、紗良さんとの結婚を拒む理由はわかった。
でも、紗良さんが正俊さんとどんなふうに利害関係にあるのか、ひいては利害関係者であるということがどうして結婚を拒む理由になるのかがわからない。
それを言葉にしようとしたら、正俊さんに先んじられた。
「他の女性を推薦されるなんて切ないな。あなたは俺の婚約者なのに」
硬質で、温度のない声。
それに怯んでしまう気持ちもあった。それでも、私が彼の婚約者であるという言葉は、ちゃんと否定しなきゃいけないと思った。
正俊さんを振り返って、泣きたい気持ちで告げた。
「私は……偽物です」
正俊さんと視線が重なる。
重なった視線の先で、彼は――ひどく傷ついたような顔をした。
え、と目を見ひらくと同時、彼が私との距離を詰めた。私が後退ろうとすれば、強引めいた力が私の手首を掴む。
「それなら、本物の婚約者らしいことをしますか?」
えっ、と声を取り落とした私の手首を掴んだまま、彼は反対側の手で私の顎を掴んだ。そのまま上を向かされて、彼の影が私の視界を奪う。
深くて甘やかな香りが、蔓のように私に絡む。
彼の眼差しが近づいてきて、ぎゅっと強く目を瞑った。息も止まった。だけどその次の刹那に、ぱっと彼に手離された。
「……すみません、頭を冷やしてきます」
目をひらいたら、彼が私に背中を向けたところだった。正俊さんと背中に追い縋るけれど、彼は振り返らずにリビングを出ていった。
立ち尽くす私の耳に、玄関の扉が開閉した音がかろうじて届く。
いつだって穏やかで優しかった正俊さんが、こんなふうに感情を露わにしたのは初めてだ。
――結城は何も話していないんですね。あなたは婚約者なのに。
神楽坂さんが仄めかしたお父様の話。そして、正俊さんが私に提案した偽物の婚約。
正俊さんは、何らかの苦しさを抱えている。
きっと今、私は彼の傷口に触れてしまった。
マンションに着いて、私たちは言葉なくリビングへと向かった。
「着替えてきます」
正俊さんにそう言って、寝室へ下がろうとした。
だけど、彼に腕を掴まれた。
それでも振り返らずにいたら、ゆっくりと腕を手離されて、彼が申し訳なさそうな声で言う。
「すみません……。知り合いもいない中で、気を遣わせてしまいましたよね」
いえ、と私は弱く首を振った。正俊さんの方を見ないまま、口をひらく。
「私の役目です。300万の奨学金を引き受けてもらったんだから、当然やらなきゃいけないことでした」
そう言ったら、彼が押し黙る気配がした。世界が停滞したような沈黙、そのさなかに、カチリと秒針の響きが落ちてゆく。
呼吸が不安定に揺らいだ。目の奥が熱くなって、それをごまかすように口走った。
「どうして、紗良さんとの結婚を断ってしまうんですか」
正俊さんは何も答えない。憤慨する心地になって、言い募る。
「綺麗で優秀で、とっても優しくて……あんなに素敵な方なのに」
アイシャドウがきらめく瞼を伏せて、ほんの少し切なげに笑った紗良さん。――先輩が愛しているのは真理菜さん。父だって、本当はわかっているのよ。
紗良さんはそう信じているけれど、私たちの関係は真っ赤な嘘だ。
もしかしたら紗良さんの恋は、本当なら叶っていたのかもしれないのに。
ぎゅっとくちびるを噛みしめたとき、正俊さんが言った。
「彼女は事務次官のご令嬢です。俺は、俺にとってのステークホルダーと結婚するつもりはありません」
端的で、頑なな声だった。
正俊さんは私に対していつも穏やかだったから、その落差に息を呑む。
ステークホルダー。意味は、利害関係者。前に、彼と公園を散歩した日に教えてもらった。紗良さんは正俊さんにとって利害関係者だから、紗良さんと結婚するつもりはないのだという回答。
正俊さんが、紗良さんとの結婚を拒む理由はわかった。
でも、紗良さんが正俊さんとどんなふうに利害関係にあるのか、ひいては利害関係者であるということがどうして結婚を拒む理由になるのかがわからない。
それを言葉にしようとしたら、正俊さんに先んじられた。
「他の女性を推薦されるなんて切ないな。あなたは俺の婚約者なのに」
硬質で、温度のない声。
それに怯んでしまう気持ちもあった。それでも、私が彼の婚約者であるという言葉は、ちゃんと否定しなきゃいけないと思った。
正俊さんを振り返って、泣きたい気持ちで告げた。
「私は……偽物です」
正俊さんと視線が重なる。
重なった視線の先で、彼は――ひどく傷ついたような顔をした。
え、と目を見ひらくと同時、彼が私との距離を詰めた。私が後退ろうとすれば、強引めいた力が私の手首を掴む。
「それなら、本物の婚約者らしいことをしますか?」
えっ、と声を取り落とした私の手首を掴んだまま、彼は反対側の手で私の顎を掴んだ。そのまま上を向かされて、彼の影が私の視界を奪う。
深くて甘やかな香りが、蔓のように私に絡む。
彼の眼差しが近づいてきて、ぎゅっと強く目を瞑った。息も止まった。だけどその次の刹那に、ぱっと彼に手離された。
「……すみません、頭を冷やしてきます」
目をひらいたら、彼が私に背中を向けたところだった。正俊さんと背中に追い縋るけれど、彼は振り返らずにリビングを出ていった。
立ち尽くす私の耳に、玄関の扉が開閉した音がかろうじて届く。
いつだって穏やかで優しかった正俊さんが、こんなふうに感情を露わにしたのは初めてだ。
――結城は何も話していないんですね。あなたは婚約者なのに。
神楽坂さんが仄めかしたお父様の話。そして、正俊さんが私に提案した偽物の婚約。
正俊さんは、何らかの苦しさを抱えている。
きっと今、私は彼の傷口に触れてしまった。