エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
頭を冷やしてくると言った正俊さんは、夜になっても戻らなかった。12時を過ぎたところで、彼のぶんとして取り分けていた夕食を冷蔵庫に入れた。ひとりきりのマンションで就寝して、白く眩い朝を迎えた。
ひんやりとしたフローリングにつま先を下ろす。ゆっくりと立ち上がって、ふわふわのスリッパを履いた。短い距離を歩いて、寝室とリビングを繋ぐ扉をあけた瞬間、私はほっと息を吐く。白いシャツとダークグレーのスラックス姿の正俊さんがキッチンに立っていたから。
「真理菜さん……」
シンクで何かを洗っていた彼は、水を止めてタオルで手を拭く。そうして、こちらへやってきて私に向き直る。
「昨日はすみませんでした」
正俊さんは、私に向かって深く頭を下げた。穏やかで優しい雰囲気は、これまで通りの彼だった。
「いえ……」
緩く首を振ったあと、「頭を上げてください」と声を掛ける。おそるおそるといったふうに上体を起こした彼は、私の目を慎重に見つめた。
「許してくださいますか」
「そんな……許すとか許さないとか、私はそんなことを決める立場じゃないと思います」
正俊さんの瞳が揺らぐ。今の言い方だと語弊があると思ったから、慌てて言い募る。
「正俊さんは何も悪いことをしてないです。私は、何もされてないです」
手首を掴まれて、顎を掴まれた。彼が何をしようとしたのか、わからないなんて言わない。
でも――彼は思いとどまって、私を手離した。
「何か……傷つけてしまったのですよね」
私が偽物なのだと言ったとき、正俊さんはひどく傷ついた顔をした。彼が口にしたステークホルダーという言葉と、彼が内密にしているお父様の事情。
彼の心の無防備な部分に、私は何も知らないまま踏み込んでしまった。
「何も話したくないなら、私はもう何も聞きません」
彼の瞳を真っ直ぐに見上げて、続ける。
「でも……もし、私で力になれることがあるなら教えてください。私は、正俊さんに助けてもらったぶんをお返ししたいです」
300万円の奨学金の返済だけじゃなくて、彼が私にくれた様々な言葉。
私は半人前じゃないのだと言ってくれたこと。私の夢を笑わずに聞いてくれたこと。
正俊さんが私を肯定してくれたから、私はキラキラと輝くガラスビーズのヘアピンを買えた。
夢叶う、という花言葉を持つ青い薔薇のモチーフを。
「真理菜さん……」
正俊さんが、私の名前を呆然と呟く。
レースカーテン越しの柔らかなきらめきの中で、私たちはしばし見つめ合った。
やがて、正俊さんがぎゅっと目を眇める。
「結婚話を断るための婚約者役……。昨日、真理菜さん側の契約条項を果たしていただきました。真理菜さんがこのマンションを出て行くというなら、俺は引き留めることはできません」
でも、と続けた彼の声がわずかに掠れる。
「でも……まだ俺との暮らしが嫌になっていないなら、もう少しだけここにいてくれませんか」
正俊さんの瞳を見つめたまま、私は微笑む。
「嫌になんて、なっていないです」
彼の瞳に映り込む、朝の白いきらめきは綺麗だ。
「ここにいます。まだ……私がここで暮らしてもいいなら」
ひんやりとしたフローリングにつま先を下ろす。ゆっくりと立ち上がって、ふわふわのスリッパを履いた。短い距離を歩いて、寝室とリビングを繋ぐ扉をあけた瞬間、私はほっと息を吐く。白いシャツとダークグレーのスラックス姿の正俊さんがキッチンに立っていたから。
「真理菜さん……」
シンクで何かを洗っていた彼は、水を止めてタオルで手を拭く。そうして、こちらへやってきて私に向き直る。
「昨日はすみませんでした」
正俊さんは、私に向かって深く頭を下げた。穏やかで優しい雰囲気は、これまで通りの彼だった。
「いえ……」
緩く首を振ったあと、「頭を上げてください」と声を掛ける。おそるおそるといったふうに上体を起こした彼は、私の目を慎重に見つめた。
「許してくださいますか」
「そんな……許すとか許さないとか、私はそんなことを決める立場じゃないと思います」
正俊さんの瞳が揺らぐ。今の言い方だと語弊があると思ったから、慌てて言い募る。
「正俊さんは何も悪いことをしてないです。私は、何もされてないです」
手首を掴まれて、顎を掴まれた。彼が何をしようとしたのか、わからないなんて言わない。
でも――彼は思いとどまって、私を手離した。
「何か……傷つけてしまったのですよね」
私が偽物なのだと言ったとき、正俊さんはひどく傷ついた顔をした。彼が口にしたステークホルダーという言葉と、彼が内密にしているお父様の事情。
彼の心の無防備な部分に、私は何も知らないまま踏み込んでしまった。
「何も話したくないなら、私はもう何も聞きません」
彼の瞳を真っ直ぐに見上げて、続ける。
「でも……もし、私で力になれることがあるなら教えてください。私は、正俊さんに助けてもらったぶんをお返ししたいです」
300万円の奨学金の返済だけじゃなくて、彼が私にくれた様々な言葉。
私は半人前じゃないのだと言ってくれたこと。私の夢を笑わずに聞いてくれたこと。
正俊さんが私を肯定してくれたから、私はキラキラと輝くガラスビーズのヘアピンを買えた。
夢叶う、という花言葉を持つ青い薔薇のモチーフを。
「真理菜さん……」
正俊さんが、私の名前を呆然と呟く。
レースカーテン越しの柔らかなきらめきの中で、私たちはしばし見つめ合った。
やがて、正俊さんがぎゅっと目を眇める。
「結婚話を断るための婚約者役……。昨日、真理菜さん側の契約条項を果たしていただきました。真理菜さんがこのマンションを出て行くというなら、俺は引き留めることはできません」
でも、と続けた彼の声がわずかに掠れる。
「でも……まだ俺との暮らしが嫌になっていないなら、もう少しだけここにいてくれませんか」
正俊さんの瞳を見つめたまま、私は微笑む。
「嫌になんて、なっていないです」
彼の瞳に映り込む、朝の白いきらめきは綺麗だ。
「ここにいます。まだ……私がここで暮らしてもいいなら」