エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
 ノートの上で、淡い影が触れ合った。その瞬間に、私たちの距離がとても近いことに気づいてうろたえた。

「――そうです、これは順列になります。順列はさっきの式を使います。ただこの問題では、この2人が必ず隣り合うわけですが……」

 そっと横目で窺った彼は、何の気負いもなく問題集を見ている。それが何故だか切ないなんて――何考えてるの、ちゃんと解説に集中しなきゃ。

 気持ちを切り替えて問題に向き合う。『AさんとBさんが隣り合う並び方は何通りか』を求める問題。

 正俊さんに教えてもらったことを思い返しながら、ぎゅっと眉根を寄せる。問題集とノートを交互に睨んでみる。だけど、答えに辿り着けない。

 ふ、と正俊さんが微笑んだ。柔らかな息遣いにはっとして、また私は百面相をしていたのかと慌てる。

 彼は優しい表情をしたまま、「シャープペンを借りてもいいですか?」と言った。

「は、はい……! もちろんです」

 握っていたシャープペンを正俊さんに渡す。

「ノートも、俺が記入しても構いませんか?」

 私が頷くと、彼はノートにさらさらと図を描いた。

「こういった問題は、まずAさんとBさんをひとまとめにします」

 正俊さんは説明しながら、図の傍に『まとめる』と記した。その文字を見て、私は目を見ひらいた。

「綺麗……」

 ほとんど無意識に声が出た。
 え、と正俊さんが顔を上げる。小首を傾げる彼と目が合って、

「あ……いえ! 字がすごく綺麗だなと思って……!」

 言い訳をするみたいに慌てて言った。

「ありがとうございます」

 正俊さんはさらりと応じる。たぶん、字を褒められることには慣れているのだろう。

 正俊さんがノートに向き直ったから、私もそちらへ視線を向ける。余計な物思いも、意識から押し出す。緩やかに夜が深まっていった。

 今日の分の勉強が終わって、正俊さんにお礼を言った。おやすみなさいも言い合って、私の部屋として使わせてもらっている寝室へ向かった。

 扉を隔てたリビングのソファで、彼は横になっているはずだ。

 私はベッドに腰掛けて、先程まで向き合っていたノートをひらく。シャープペンの柔らかな質感で記された正俊さんの字。

 正俊さんが副館長だったとき、彼が作成した書類を何度も目にしたけれど、どれもPCで作成された文書だった。副館長と非常勤司書では業務上直接的に関わることはなかったし、手書きの手間が省かれるこの時代だ。今日まで、彼の字がとても綺麗なのだということを知らなかった。

 彼の手が操るシャープペンで『まとめる』と記されたとき、もうずっと昔に、カフェのお客さんに勉強を教えてもらった日を思い出した。

 ふわりと揺らめくコーヒーの匂いと、軽やかなピアノのBGM。素朴な甘さのスコーンと、ころりと転がった消しゴム。控えめに笑って、和歌の読解について解説をしてくれたひと。

 大学生くらいのそのひとは、見とれるほどに綺麗な字を書くひとだった。

 あの日の空間の柔らかさを思い出せるのに、そのひとの顔はもう思い出せない。

 でも、難解な文法を丁寧にかみ砕いた解説が、とてもわかりやすかったことを覚えている。

 目の前のノートに記された、とても綺麗な字。
 胸の奥で、ひそやかに鼓動が響く。

 ――まさかね。

 私は息をこぼすみたいに笑って、ぱたんとノートを閉じた。
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