エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
 穏やかに日々が過ぎていって、4月の中旬になった。正俊さんは、昨日から新潟に出張している。文部科学大臣の視察に同行するという話だった。

 私は勤務先の大学図書館で、カウンター業務に入っていた。今日は土曜日。大講義室では、今年度最初のビブリオバトルが開催されている。複数名の職員がビブリオバトルの運営に配置されているから、館内の人員はいつもより手薄だ。そのうえ、セルフ貸出機の不具合も起きてしまったから、カウンターは大忙しだった。

 お昼休憩に入れたのは、ビブリオバトル側のメンバーが戻ってきた14時過ぎ。朝からずっと目まぐるしくて、あっという間に時間が過ぎてしまった。体感的にはまだ午前中だ。

 だけど、業務を交代してもらってカウンターを出たら、空腹感が一気に押し寄せてきた。疲労感も遅れてやってくる。

 構内のカフェでホットサンドにしようかななどと考えながらエントランスに向かっていた。レポート用か、本をたくさん抱えた学生さんとすれ違って、雑誌コーナーに差し掛かったところで、背の高い影が私の前に進み出た。

 私は、はっと息を呑む。ほんの一瞬で、自分の呼吸が不明瞭になったように感じた。

「神楽坂さん……」

「覚えてくださっていて、光栄です」

 神楽坂さんは、私に向かってにこやかに笑いかけた。

 友好的な彼の表情とは裏腹に、自分の面持ちが強張ったのがわかった。彼は、言葉遣いも物腰も丁寧なひと。でも、正面から向かい合っていると、底の知れない緩やかな圧を感じる。

「広瀬真理菜さん。少し、お時間をいただけますか?」

 礼儀正しい声音でそう言われた。でも、否とは言えないような強硬さがある。

 まるで、連行されるみたいに彼の隣を歩いた。

 図書館のエントランスを出てすぐ、石畳の構内道路を歩きながら話を切り出された。

「勤務の差し支えになるということは承知しています。だから、手短に申し上げます」

 風が吹いて、石畳に沿って立ち並ぶ木々がざわざわと騒ぐ。


 神楽坂さんの眼差しが真っ直ぐに私を見据える。

「広瀬真理菜さん……あなたに交際を申し込みます」

 ――え、と調子の外れた声を取り落とす私に、彼は告げた。

「先日のパーティーで、あなたに一目惚れをしました」

 ざわざわと騒ぐ葉擦れの音が、耳鳴りみたいに響いている。
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