エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~

*3章* 綻ぶ魔法

 葉擦れの音が、不意に静まった。
 私ははっと呼吸を取り戻して、「揶揄わないでください」と視線を揺らめかせた。

 神楽坂さんは薄く笑っている。その表情のまま、「どうして?」と私に問うた。

「えっ……?」

 と、私は戸惑う。何を問われたのかがわからない。どうしてと尋ねたいのは私の方だ。

 神楽坂さんは、困惑する私をまるで品定めするように眺めた。

「俺が揶揄っていると考えるのは、どうして?」

「だって……」

 神楽坂さんとは、先日のパーティーで一度会っただけだ。あの日、明らかに場の空気から浮いていた私に、一目惚れされるような要素があったとは思えない。それに、彼は私に対して丁寧で友好的だったけれど、眼差しがずっと冷たい気がした。

 今も、彼が私を見つめるそれに仄暗い冷ややかさを感じている。

 だけど、それを口にすることを躊躇した。だって、冷たいとか仄暗いとか、それはもしかしたら私の勝手な思い込みかもしれないとも思った。もしもそうなら、神楽坂さんに対してとても失礼だ。

 私が言い淀む間合いを、神楽坂さんは別の方向に解釈した。

「あなたが結城と婚約しているから?」

 その問いかけにハッとした。そうだ、私には最も重要な前提条件があったのに。

「……そうです」

 まるで、それを当然自覚していたかのような顔を作って、答えた。

 私と正俊さんの契約は終わったけれど、対外的には、私が婚約者であるという嘘を覆しちゃいけないはずだ。正俊さんは、彼にとって不本意な結婚話を断るために、私の300万円を引き受けたのだから。一度契約を結んだなら、私には、正俊さんにとっての利益を守る義務があるはず。

「私は正俊さんと婚約しています。だから、私を揶揄っているだけだと思います」

 話がそれだけならと、この場を後にしようとした。だけど、「失礼します」と頭を下げたら、神楽坂さんが笑みをはらんだ声で言った。

「それは俺にとって、あなたを諦める理由にはなりません」

 頭を上げた瞬間、私の視線は彼の眼差しに絡め取られる。

「約束ほどいい加減で頼りないものはない。そんなものはいつだって破れる」

 不敵に笑みを深めた彼は、とても優しく聞こえる声で言った。

「これ以上は、勤務の差し支えとなりますね。いったんは引き下がりますが……きっとあなたを、俺の婚約者にします」

 不穏な笑みの名残を置き去りにして、神楽坂さんは正門の方へ立ち去った。ざわざわと騒ぐ葉擦れの音に彼の靴音が紛れて、消える。
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