エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
 あっ、と小さく声を上げて手を止めた。コンロの火も止めて、玄関まで出迎えに行く。
 暖色の灯りに染まった廊下。短い距離をぱたぱたと駆けたら、玄関の鍵をかけていた正俊さんがこちらを向いた。

「おかえりなさい!」

 視線が重なった瞬間に、心が弾んだ。

「ただいま帰りました」

 正俊さんが微笑む。それだけで、室温に溶けた灰色の雨の肌触りが遠ざかる。

「……あっ、荷物もらいますね!」

 正俊さんが持つボストンバッグに手を伸ばすけれど、

「まさか。女性にそんなことをさせられません」

 彼は、私をやんわりと手で制した。ボストンバッグを持ったまま危なげなく靴を脱いで、丁寧に揃える。
 仕草のひとつひとつが、いつも見惚れるくらいに綺麗だ。

 リビングまでの短い距離をふたりで歩く。

「その、……出張、お疲れ様でした」

 私の言葉は何だかぎこちない。それでも、正俊さんは気にしたふうもなく、寛いだ眼差しで笑った。

「ありがとうございます。さすがに、少し疲れました」

 彼は笑いながら、ネクタイを緩める。私はその仕草をつい見つめてしまったあと、はっとして目を逸らした。

 リビングのドアをあけて、正俊さんが一歩を進める。広い、と昨日まで感じていたこの場所が、正しい縮尺に収まったような気持ちになる。

「あ……えっと、今夜のご飯はカレーなんです」

「ああ、それは嬉しいです。キーマカレーですか?」

「はい」

「真理菜さんのキーマカレーはとても美味しいから」

 正俊さんはソファにボストンバッグを置くと、ジャケットを脱いだ。そうして、「寝室をお借りしますね」と断ってから、服を着替えに行った。私はキッチンに戻って調理を再開する。

 キーマカレーは、私が一人暮らしをしていたときによく作っていた料理だ。困窮していた私にはカレー用の角切り肉を買うことも難しくて、ひき肉を買うのがやっとだった。せめて満足感を出そうとしめじを刻んで入れてみたり、ミックスビーンズの水煮を入れてみたり、旬の野菜や特売の野菜を入れてみたりと工夫していた。今夜は、先日サラダに使った春キャベツの残りがあったので、芯の部分や葉の固そうな部分を使うことにした。芯の部分には甘みがあるから、味わいに深みが出るはずだ。

 奨学金を返しながら生きていくための苦肉の策。苦い記憶だったのに、正俊さんが美味しいと言ってくれるから、まるで素敵な思い出のように思えてくる。

 ダークグレーのスウェットに着替えた正俊さんが、テーブルを拭いてお皿を運んでくれた。向かい合って座った私たちは、「いただきます」と手を合わせた。

「出張はどうでしたか?」

 スプーンでカレーをすくいながら尋ねると、正俊さんは難しい顔をした。

「新潟県知事と話をしたのですが、あまり成果があったとは言えませんね」

「そうですか……」

 私の相槌はとても無難なものになる。国家公務員である正俊さんの仕事には機密事項も多分に含まれるから、私には話せないことが多い。だから、私も詳しくは訊かないようにしている。それは彼が職務を全うする上でごく当たり前のことだから、私の方は気にしたことがないけれど――。

「すみません。いつも、曖昧な話しかできなくて」

 正俊さんはいつも申し訳なさそうに眉を下げる。私は、スプーンを持っていないほうの手をぶんぶんと振る。

「とんでもないです……! お仕事に誠実で素敵だなっていつも思っています!」

「えっ?」

 正俊さんが、スプーンを動かしていた手を止める。彼が私をじっと見て――私は、自分が誤解を生みかねない台詞を言ったことに気づく。

「い、いえっ! その……やっぱり、お仕事を一生懸命に頑張るひとって素敵じゃないですか、一般的に!」

「ああ……はい、それは俺も同感です」

 正俊さんは微笑むと、カレーをすくったスプーンを口に運んだ。少し伏し目になった彼の面差しから視線を外しながら、よかった普通の会話になった、とそっと胸を撫でおろす。

 緩やかな無言があってから、正俊さんが私に尋ねた。

「真理菜さんは、どのようにお過ごしでしたか?」

「私は……」

 いつも通りでしたと答えかけてから、はっと気づく。図書館を訪ねてきた神楽坂さんのことを思い出したから。
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