エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
 きっとあなたを、俺の婚約者にします。私を正俊さんの婚約者だと認識しながら、神楽坂さんはそう言った。通常であれば、婚約者である正俊さんへ真っ先に報告すべき事柄だ。

 でも、私たちは本当の婚約者じゃなかった。契約も、もう正常に終わっている。

 それなら、神楽坂さんに言われたことを正俊さんに報告する必要なんてないんじゃない? 私の恋愛事情なんて正俊さんには関係のないことだし、多忙な彼に余計な話を聞かせてしまうのも気が引ける。

 言い淀んだ間合いでそう結論付けて、私は小さく笑う。

「私は、いつも通りでした」

「そう。それなら、良かったです」

 正俊さんは微笑んだ。私たちは和やかな雰囲気で、夕食の時間を過ごした。そのあとは、正俊さんと一緒にキッチンで洗い物を済ませた。本当は、私が夕食を作った代わりに洗い物を引き受けると正俊さんが言ってくれたのだけれど、出張から帰ったばかりで疲れている彼にすべて任せるわけにはいかない。

 洗い物が終わってリビングへ戻ると、正俊さんは白い封筒を手に取った。私がポストから取ってきた、不動産会社からの案内だ。彼は壁際のキャビネットからペーパーナイフを取って、封筒を開封する。そうして、中身の書類にさっと目を通すと、キャビネットの引き出しへ封筒を仕舞った。

 ペーパーナイフなんて自宅にあるものなんだ……と、彼の暮らしの上質さを改めて思い知る。彼が封筒を仕舞うまでの一連の流れを見つめていたから、その視線を違うふうに解釈して、正俊さんが言い添える。

「マンションの更新についての案内でした。自動更新だから、特に手続きは必要ありません」

「あ……そうなんですね!」

 私はぱっと笑って、何気ない感じを装ってソファに腰掛ける。そうして、少し躊躇ってから、おずおずと口をひらいた。

「私も……本当なら、自分でアパートを探さなきゃいけないですよね」

「え……?」

 正俊さんが私を見る。私は彼からさりげなく視線を逸らして、苦笑いをする。

「正俊さんは、ここにいてって言ってくれたけど……もう契約は終わっています。家賃も払っていないのに、こんな素敵なマンションで暮らし続けるなんて、本当はダメですよね」

 太腿の上で両手を握り合わせた。――だから、もうこの暮らしは終わりにします。本当なら、私からそう言わなきゃいけないのかな。

 もう少しだけここにいてくれませんか、と前に彼は言ってくれた。まるで、私じゃなくて彼の都合みたいに。

 でも、私がこのマンションで暮らしている意味は何だろう。私が、正俊さんのそばにいる意味は。

 ひとつ、まばたきをして目を伏せた。そうしたら、正俊さんがこちらへ歩み寄って、私の正面に立つ。

 天井の照明が半分、正俊さんに遮られた。彼のかたちの影が私の視界で揺らめいて、ほんの一瞬、彼の表情が逆光の暗色に塗りつぶされる。

 思わず身構えてしまった。けれど次の途端、彼の表情が元通りに明るくなる。

 正俊さんは穏やかな表情で、私のすぐ隣に腰掛けた。

「婚約者役をお願いしたとき、俺がここでの暮らしを提案したので、真理菜さんはアパートを引き払うことになりました」

 確かにそうだ。私が暮らしていたアパートの契約更新が迫っていたから、それならいっそ、と一緒に暮らすことを提案された。

 これまでの経緯を思い返す私に、彼は穏やかな表情のまま言った。

「住む場所を新しく探すなら、仲介手数料に敷金礼金……少なくない費用がかかります」

「はい……。そうですよね」

 自分の預金口座の残高を思い浮かべて、曖昧な苦笑いを浮かべる。すると、正俊さんはごく当たり前みたいに言った。

「真理菜さんが嫌でないなら、まだもう少し、こちらで暮らすのはいかがですか?」

「でも……」

 預金口座には微々たる金額しか入っていないけれど、正俊さんが奨学金の返済を肩代わりしてくれたこと、そして今の生活費のほとんどを負担してくれているおかげで、まったくお金がないというわけじゃない。口座をまた空っぽにしてしまうことになるけれど、引越しの初期費用くらいは賄えるはずだ。

 返事を迷う私に、正俊さんは真っ直ぐに告げた。

「俺の都合でアパートを引き払わせてしまったので。責任を取らせてください」

 私の困窮状態を彼に責任転嫁してしまうような言葉。それを素直に了承してしまうのは気が引けた。

 でも、正俊さんと共有する空気の肌触り。穏やかに重なる眼差し。ノートの上で触れ合う影の優しい色合い。

 彼と一緒に暮らし始めてから、私が知った様々なもの。それらを全部、失ってしまうのだと思ったとき、私の瞳は弱くふるえた。
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