エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
黙り込んだ私に、正俊さんが優しく微笑む。
「どうせ一人になっても、寝室はほとんど使いません。どうぞ、気兼ねなく使ってください」
きっと本当なら、『これ以上甘えるわけにはいきません』と言うべきだった。だけど、私は切なさに呑み込まれて、彼の言葉を無抵抗に受け取った。
「それなら、私も家賃をお支払いします。折半はできなくても、私が払えるだけ」
「じゃあ……毎月3万円、お願いできますか」
「ダメです、それじゃ少ないです」
私は首を振るけれど、正俊さんは優しい微笑みのまま続けた。
「家賃は、俺が一人で暮らしていても同じ額を払います。これ以上は受け取れません」
偽物の婚約を提案されたときと同じ、丁寧で穏やかで、だけどどこか有無を言わさないような声音だった。
私は全ての異議を奪われて、「……わかりました」と了承してしまった。
その瞬間に、花びらが視界を掠めるように、いつかの彼の面差しを思い出した。――俺は、俺にとってのステークホルダーと結婚するつもりはありません。
時折、まるで花びらが散る刹那に抗うみたいに、彼が頑なになるのは何故だろう。
正俊さんのことが知りたい。でも、一度知ろうとして傷つけてしまった。
だから、どうしてと尋ねることはできなくて、代わりに、言わなきゃいけなかったことを言った。
「指輪を、お返ししますね」
「えっ?」
「このマンションに引き続き住まわせてもらうとしても、指輪はお返しします」
私は、正俊さんの眼差しを見上げて笑う。
「偽物の婚約が終わったらお返しするって約束でした」
正俊さんの瞳が、ほんの一瞬揺れたように感じた。だけど、それはもしかしたら気のせいで、彼は穏やかな声で言った。
「そうでしたね」
その返事を聞いて、私は、私の部屋になっている寝室へ指輪を取りに行った。
そうして、リビングに戻って正俊さんと向き合う。
「とっても素敵な指輪をお借りできて……まるで、お姫様になれたみたいでした」
ブラックのベルベット地のリングケースごと指輪を返した。プリンセスカットのきらめきは、ケースに閉じ込められたまま私の手を離れる。
「お風呂の準備をしてきますね」
私はソファから立ち上がって、リビングから廊下に出る。バスルームへと向かいながら、胸の奥に低い心音が墜落する音を聞いた。
――変だな、どうして。
揺らめく眼差しを自覚しながら、静かな廊下を歩く。脱衣所の扉をあけて、洗面台の鏡に映る自分から目を逸らして、バスルームのガラスの扉に手を触れさせる。
ガラスに映り込んだ半透明の私。まるで傷ついたみたいな顔をしている。
自分から指輪を返すと言ったのに。
それなのに、正俊さんが受け取ったことにショックを受けるなんて、そんなの変だよ。
「どうせ一人になっても、寝室はほとんど使いません。どうぞ、気兼ねなく使ってください」
きっと本当なら、『これ以上甘えるわけにはいきません』と言うべきだった。だけど、私は切なさに呑み込まれて、彼の言葉を無抵抗に受け取った。
「それなら、私も家賃をお支払いします。折半はできなくても、私が払えるだけ」
「じゃあ……毎月3万円、お願いできますか」
「ダメです、それじゃ少ないです」
私は首を振るけれど、正俊さんは優しい微笑みのまま続けた。
「家賃は、俺が一人で暮らしていても同じ額を払います。これ以上は受け取れません」
偽物の婚約を提案されたときと同じ、丁寧で穏やかで、だけどどこか有無を言わさないような声音だった。
私は全ての異議を奪われて、「……わかりました」と了承してしまった。
その瞬間に、花びらが視界を掠めるように、いつかの彼の面差しを思い出した。――俺は、俺にとってのステークホルダーと結婚するつもりはありません。
時折、まるで花びらが散る刹那に抗うみたいに、彼が頑なになるのは何故だろう。
正俊さんのことが知りたい。でも、一度知ろうとして傷つけてしまった。
だから、どうしてと尋ねることはできなくて、代わりに、言わなきゃいけなかったことを言った。
「指輪を、お返ししますね」
「えっ?」
「このマンションに引き続き住まわせてもらうとしても、指輪はお返しします」
私は、正俊さんの眼差しを見上げて笑う。
「偽物の婚約が終わったらお返しするって約束でした」
正俊さんの瞳が、ほんの一瞬揺れたように感じた。だけど、それはもしかしたら気のせいで、彼は穏やかな声で言った。
「そうでしたね」
その返事を聞いて、私は、私の部屋になっている寝室へ指輪を取りに行った。
そうして、リビングに戻って正俊さんと向き合う。
「とっても素敵な指輪をお借りできて……まるで、お姫様になれたみたいでした」
ブラックのベルベット地のリングケースごと指輪を返した。プリンセスカットのきらめきは、ケースに閉じ込められたまま私の手を離れる。
「お風呂の準備をしてきますね」
私はソファから立ち上がって、リビングから廊下に出る。バスルームへと向かいながら、胸の奥に低い心音が墜落する音を聞いた。
――変だな、どうして。
揺らめく眼差しを自覚しながら、静かな廊下を歩く。脱衣所の扉をあけて、洗面台の鏡に映る自分から目を逸らして、バスルームのガラスの扉に手を触れさせる。
ガラスに映り込んだ半透明の私。まるで傷ついたみたいな顔をしている。
自分から指輪を返すと言ったのに。
それなのに、正俊さんが受け取ったことにショックを受けるなんて、そんなの変だよ。