エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
 バスルームは、私が先に使わせてもらうことになった。正俊さんは、急ぎ対応が必要なメールが入ったということだったから。足が真っ直ぐに伸ばせる広さのバスタブで、お湯の揺らめきに浸かりながら、どうして、と思う。

 優しくしてもらっているのに、切ないような気持ちになるのはどうして。

 広いバスタブの中で、脚を引き寄せて三角に抱える。バスソルトを溶かしたお湯は、花に似た匂いがする。

 かぐわしさに包まれながら、三角にした膝に頬を寄せる。

 私がアパートを引き払うことになった責任を取ると正俊さんは言った。でも、このマンションで暮らすことを彼が提案したのは、更新手数料の家賃1ヶ月分が重大な負担になるくらいに、私の生活が困窮していたからだ。

 彼の提案が本当は全部私のためなのだとわからないほど、私も鈍感じゃない。

 正俊さんはとても優しいひとだ。それを十分に知っている。だからこそ、切なくなるなんてわがままかな。

 だって彼は優しいから、相手が私じゃなくても同じことをするのだろう。

 彼がたまたま困っていたときに、たまたま同じように困っていたのが私だった。利害一致の契約を結んで、それが終わっても『責任を取る』と言ってくれる。彼は誰にだって誠実に向き合うはずで――けっして、私だけが特別じゃない。

 髪先からしずくが落ちて、ぽちゃん、とお湯の揺らめきに呑み込まれる。

 だからもしも――私のための合理的な理由じゃなくて、本当に彼のための理由だったら。

 そうしたら、私は安心できたのかな。たとえば、もしも隣り合って座ったソファで影が重なって、肩を引き寄せられてキスをされたなら――ちゃんと私たちの関係に名前がついて、この暮らしに安心できた?

 そこまで考えたところでハッとする。変だよ。いったい、何を考えてるの。

 ぱちんっ、と両手で顔を叩いた。そうしてお湯から上がって、身体を簡単に拭いてからバスルームを出る。

 パジャマを着て、洗面台の棚に置いてある化粧水と乳液で肌を整えてから、脱衣所を出る。

 リビングに戻ると、正俊さんはダイニングテーブルでノートPCに向かっていた。戻ってきた私に眼差しを向けて、「お帰りなさい」と微笑む。

「お先に使わせてもらいました」

「いえ。俺ももう終わるので、続けて入ってしまいますね」

 そう言って、正俊さんはPCへと視線を戻した。私がキッチンでグラスに水を汲むあいだに、キーボードを叩く音が鳴る。ややあって、ぱたんとPCが閉じられる。

 椅子から立ち上がった正俊さんはPCをケースへ仕舞うと、こちらへやってきた。

「振替で休みが取れそうです。真理菜さんの次のお休みに、一緒に出掛けませんか?」
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