エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
 お風呂上がりの正俊さんと、リビングのソファで和やかにお喋りをした。そうして日付が変わる前に、「おやすみなさい」を言って寝室に下がった。

 正俊さんが不在のあいだ、長いと感じた夜はあっという間に明けた。白い光の中で目を覚まして、仕事に行って、和やかな夜をもうひとつ過ごした。

 そうしたら、正俊さんと出掛ける朝になる。私はラベンダー色のワンピースを着た。靴も他所行き用のパンプスで、指輪を買いに行った日と同じコーディネート。髪に挿した青い薔薇のヘアピンだけ、あの日とは違う。

「行きましょうか」

 正俊さんに頷いて、部屋を出た。今日の正俊さんは、ホワイトのインナーに、アイボリーの襟付きシャツ。ボトムスはグレージュのチノパンという涼しげなコーディネート。

 彼と一緒にエレベーターに乗ってロビーに下りて、オートロックのガラスのドアがひらいたとき――。

 風除室のインターホンの前で、操作に戸惑っている女性がいた。上品な佇まいの、50代くらいの女性だった。

 お困りですかと声を掛けようとしたら、隣にいた正俊さんが私の手を掴んだ。強い力だったから、驚いて目を見ひらいた。

 それと同時、インターホンを操作していた女性がこちらを向いた。その女性も、驚いた顔をして目を見ひらいた。

「正俊……!」

「……お母さん」

 その女性――正俊さんのお母様は、私の方を見て少しだけ戸惑ったような顔をした。だけどすぐに優しい眼差しで微笑むと、「こんにちは」と会釈をした。私も慌てて挨拶をして会釈をする。正俊さんが、掴んでいた私の手を離した。

「元気そうね……よかったわ」

 お母様の言葉に、正俊さんはくちびるを結んだまま答えない。お母様は眉を下げて笑うと、不穏な雰囲気を取りなすように続ける。

「お父さんが手術すること、晃市から聞いたかしら。お薬で経過観察してたんだけど、やっぱり手術しましょうって。盲腸だから、深刻ってわけじゃないんだけど」

 正俊さんはやっぱり答えない。重たい沈黙がいたたまれなくて、

「正俊さん……?」

 私がおずおずと彼を窺うと、彼ははっとしたように目を瞬いた。

 緩慢に視線を動かして、お母様を見た正俊さんは、とてもきごちなく微笑んだ。

「……ええ、兄さんから聞きました。無事に手術が終わることを祈っています」

 そう言うと、そのままお母様とすれ違って風除室を出ようとする。えっ、と戸惑う私が慌てて追いかけると、私たちの背中に声が掛かった。

「手術は来週なの。お父さんも本当は心細いはずだから、久しぶりに顔を見せにいらっしゃいな。何か言ってあげたら、お父さんも安心するわ」

 正俊さんが立ち止まる。だけど、お母様を振り返らないまま、静かな声で言った。

「俺が顔を見せたりしたら、お父さんのお身体に障ります」

 静かな声の残余が、張り詰めた沈黙に落ちてゆく。

「そ……そんなことあるはずがないじゃない。文部科学省での活躍は聞いているわ。お父さんだって、きっと正俊の話を聞きたいはずよ」

「失望させるだけです。文科省職員である俺が何を話したところで」

 頑なな口調で言い切って、正俊さんは風除室を出て行く。

 うろたえるしかできない私は、お母様に慌ただしく頭を下げて、正俊さんを追いかけた。
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