エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
 いつか、逆光の淡い影色の中で、正俊さんが呟いた。

 ――俺は、真っ当に恋をする勇気もない臆病者です。

 優秀で、誠実で、周囲から尊敬や信頼を集めるひと。光で照らされた道を歩くひと。

 きっと誰もが、あなたに素晴らしい将来が約束されているのだと考える。

 でも、あなたが進む道がどれだけ眩くても、光り輝く場所にそれと裏腹の影が存在しないなんて有り得ない。





「正俊さん……正俊さんっ!」

 マンションの敷地を完全に出て、すぐ近くの公園の前まで来たところで、私は彼の手を掴んだ。そうしたら、彼はようやく立ち止まる。

「……すみません」

 こちらを振り向かないまま、正俊さんが呟いた。

「いえ……」

 私は緩く首を振って、正俊さんの手を離す。

 彼の温度を引き留めるみたいに、空っぽになった手を握りこむ。正俊さんは向こうを向いたまま俯いていた。風が吹き抜けて、公園の木々が耳鳴りみたいにざわざわと騒ぐ。

 歩道まで差し掛かる葉擦れの影。揺らめく木漏れ日を見上げてから、私は一歩、前に出た。もう一歩進んで、正俊さんの前に回って、彼の眼差しを下から見上げる。

 すぐに逸らされると思ったから、それより早く、微笑んだ。

「行先、変更しましょう」

「え、」

「昔、私が働いていたカフェ……の、系列店がそこにあります。カスタマイズで、ミルクたっぷりのカフェオレを飲みませんか?」

 戸惑ったように眼差しを揺らす彼の手に、そっと指先を絡めて引っ張った。

「優しい味だから、気分が落ち着くと思います」

 正俊さんからの返事はなかった。それでも、私が手を引くとついてきてくれたから、行き先をカフェに決めて、横断歩道を渡る。

 さらさらと葉擦れの音がする。肌を撫でる風が心地良い。
 正俊さんも、せめてこの風が心地良いと思っていてくれたら、と思う。

 手を繋いだまま、カフェの店内に入った。まだ午前中なので、席には空きがある。日当たりの良い窓際の席を取って、正俊さんに座ってもらう。

「二人分、注文してきますね。ホットのカフェオレ……でいいですか?」

 ミルクたっぷりのカフェオレを飲みませんかとは言ったけれど、彼は普段、ブラックだ。

「全然、オリジナルブレンドでも大丈夫です。私が言ったことは気にせず……」

 そこまで言ったところで、正俊さんが緩く首を振った。

「カフェオレで……真理菜さんがおすすめしてくれたカスタマイズで」

 そう言った正俊さんが、まるで不安を押し込める迷子みたいに、弱く笑った。

「確かに……今の俺は、動揺してるから」

 気分を落ち着けたいです――と続けた彼は、弱く笑ったまま力なく目を伏せた。

 私は、適切な相槌を何も返せずに、

「待っててください」

 ぎこちなく笑って、レジへと向かう。

「ホットのカフェオレのミルクたっぷりを2つと……スコーンを2つ。お願いします」

 交通系ICで会計をして、少し待って、カウンターでトレイを受け取る。

「お待たせしました」

 正俊さんが待つテーブルに戻って、トレイを置く。

「ありがとうございます」

 正俊さんの微笑みは、やっぱり弱々しい。

「……あ、お金を」

 正俊さんはズボンのポケットから財布を出そうとしたけれど、「ごちそうします」と言って制した。

「でも」

「正俊さんには、素敵なものをいくつもプレゼントしてもらいました。このくらいじゃ全然足りないけど……でも、私にもお返しをさせてください」

 正俊さんの目を見てそう言ったら、少しの間合いのあとに、

「ありがとうございます」

 と、彼は小さく頭を下げた。

「いえ……」

 私は緩く首を振って、正俊さんの向かい側に腰掛ける。窓から差し込む午前のきらめきが綺麗だ。

「いただきます」

 丁寧に断ってから、正俊さんはカップを手に取った。スティックシュガーは使わずに、そのまま蓋の飲み口をあけてカフェオレを飲む。私はいったん蓋を外して、スティックシュガーで甘味を足した。

「……美味しいです」

 正俊さんがほっと息を吐く。その表情が幾分か和らいでいるように思えて、私は少し安心する。

 彼は口をひらいて、でも何も言わないで閉じるのを何度か繰り返した。そうして、まるで観念するようにゆっくりと目を瞑ったあと、静かな声で話し始めた。

「エリートなんて言われるけど、俺は出来損ないなんです」

 凪の水面のように、落ち着き払った声だった。彼は全てを話すつもりなのだと、その瞬間に理解した。
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