エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
彼は緩慢に瞼をひらいて、微笑みに似た表情で続けた。
「俺の家は、大蔵省だった時代から財務省の官僚を何人も輩出しています。父も少し前まで財務省に勤めていて――国の財政を管理することは、国の信用を守ることだ。それが父の口癖でした」
はい、と静かに相槌を打った。ありきたりな相槌しか打てなかったけれど、ちゃんと話を聞いているのだと伝えるために、彼の目を真っ直ぐに見つめ続ける。
正俊さんは、言い淀むことなく話を続ける。
「結城の家に生まれたなら、目指す道は財務官僚。そして大学は、旧帝大の時代からT大と決まっていた」
T大。日本国内、すべての大学の最高峰に位置する国立大学。
「そんな一家に生まれたのに、俺はK大卒で文科省の職員です」
「……はい」
相槌を打ちながら、ぎゅ、とカフェオレのカップを包む両手に力がこもる。
「兄は完璧にやり遂げました」
いっそ晴れやかな顔でそう言った彼は、思い出話を語るように声音を柔らかくした。
「兄は難なくT大に合格して、卒業後は財務省に入省しました。でも俺は現役生のときにT大に落ちて、私立のK大に入学した。K大に在籍しながら、一年生の冬と二年生の冬にT大の入試を二度受け直しました。それでも、合格することはできなかった」
彼の口元に浮かぶ微笑みが、自嘲じゃなければいいと思う。
「そのまま、父が望む財務省にも入省することはできず、父は俺を見放しました」
微笑んだまま、彼は続ける。
「父は言いました。『力足らざる者は中道にして廃す。今汝は画れり』と孔子の言葉を引用して、おまえに期待してはいけなかったな、と」
「そんな……」
私はぎゅっと眉根を寄せた。正俊さんが微笑んでいるから、余計に苦しい気持ちになる。
「実力のない者はやるべきことを途中で放棄する。今、おまえは努力を諦めたのだ。――俺は懸命に努力したつもりだった。でも、全然足りていなかった。少なくとも父はそう思った」
私は、相槌すら打てなくなって動揺する。何かを言いたいのに、何も言葉が出てこない。
正俊さんが、ひとつまばたきをした。そうして、痛みを噛み締めるように目を眇めた。
「だから、俺は事務次官になりたいんです。結城家は何人もの優れた財務官僚を輩出しているけど、誰も、省内でたった一人しか就任できない事務次官には上り詰めていない。父が望んだ財務省じゃなくても……文科省でも、俺が実力で事務次官に上り詰めれば、父を見返せると、思って……」
正俊さんの声が、弱くふるえる。テーブルの上で握りしめた右手もふるえている。
「だから、篠宮さんと婚約するわけにはいかなかった。篠宮家とのコネクションで成り上がったなんて、誰にも言わせないために」
ようやく、全てが腑に落ちた。
――俺は、俺にとってのステークホルダーと結婚するつもりはありません。
彼が、頑なな声で言い切った意味。私が抱える300万円の奨学金を引き受けてまで、紗良さんとの婚約を断った意味。
全部、お父様に挑む戦いだったのだ。傷だらけのまま、必死に上を睨み据えて――。
でも、必死で戦うあなたは、自分が傷だらけだということに気づいている?
「正俊さん……」
何かを言いたかった。でも、さっきと同様に、何も言葉が出てこない。
そのあいだに、正俊さんが先に口をひらいた。
「俺の意地に、あなたを巻き込んでしまってすみません」
「そんな……! 私は」
私は、あなたと暮らす日々に救われた。それを訴えたかったのに、言葉にすることはできなかった。
だって、思い知ってしまったから。
彼と一緒に過ごした日々は、私にとってはきらめく日々。
でも、彼にとって私と過ごした日々は、痛みと後ろめたさの象徴だ。
「俺の家は、大蔵省だった時代から財務省の官僚を何人も輩出しています。父も少し前まで財務省に勤めていて――国の財政を管理することは、国の信用を守ることだ。それが父の口癖でした」
はい、と静かに相槌を打った。ありきたりな相槌しか打てなかったけれど、ちゃんと話を聞いているのだと伝えるために、彼の目を真っ直ぐに見つめ続ける。
正俊さんは、言い淀むことなく話を続ける。
「結城の家に生まれたなら、目指す道は財務官僚。そして大学は、旧帝大の時代からT大と決まっていた」
T大。日本国内、すべての大学の最高峰に位置する国立大学。
「そんな一家に生まれたのに、俺はK大卒で文科省の職員です」
「……はい」
相槌を打ちながら、ぎゅ、とカフェオレのカップを包む両手に力がこもる。
「兄は完璧にやり遂げました」
いっそ晴れやかな顔でそう言った彼は、思い出話を語るように声音を柔らかくした。
「兄は難なくT大に合格して、卒業後は財務省に入省しました。でも俺は現役生のときにT大に落ちて、私立のK大に入学した。K大に在籍しながら、一年生の冬と二年生の冬にT大の入試を二度受け直しました。それでも、合格することはできなかった」
彼の口元に浮かぶ微笑みが、自嘲じゃなければいいと思う。
「そのまま、父が望む財務省にも入省することはできず、父は俺を見放しました」
微笑んだまま、彼は続ける。
「父は言いました。『力足らざる者は中道にして廃す。今汝は画れり』と孔子の言葉を引用して、おまえに期待してはいけなかったな、と」
「そんな……」
私はぎゅっと眉根を寄せた。正俊さんが微笑んでいるから、余計に苦しい気持ちになる。
「実力のない者はやるべきことを途中で放棄する。今、おまえは努力を諦めたのだ。――俺は懸命に努力したつもりだった。でも、全然足りていなかった。少なくとも父はそう思った」
私は、相槌すら打てなくなって動揺する。何かを言いたいのに、何も言葉が出てこない。
正俊さんが、ひとつまばたきをした。そうして、痛みを噛み締めるように目を眇めた。
「だから、俺は事務次官になりたいんです。結城家は何人もの優れた財務官僚を輩出しているけど、誰も、省内でたった一人しか就任できない事務次官には上り詰めていない。父が望んだ財務省じゃなくても……文科省でも、俺が実力で事務次官に上り詰めれば、父を見返せると、思って……」
正俊さんの声が、弱くふるえる。テーブルの上で握りしめた右手もふるえている。
「だから、篠宮さんと婚約するわけにはいかなかった。篠宮家とのコネクションで成り上がったなんて、誰にも言わせないために」
ようやく、全てが腑に落ちた。
――俺は、俺にとってのステークホルダーと結婚するつもりはありません。
彼が、頑なな声で言い切った意味。私が抱える300万円の奨学金を引き受けてまで、紗良さんとの婚約を断った意味。
全部、お父様に挑む戦いだったのだ。傷だらけのまま、必死に上を睨み据えて――。
でも、必死で戦うあなたは、自分が傷だらけだということに気づいている?
「正俊さん……」
何かを言いたかった。でも、さっきと同様に、何も言葉が出てこない。
そのあいだに、正俊さんが先に口をひらいた。
「俺の意地に、あなたを巻き込んでしまってすみません」
「そんな……! 私は」
私は、あなたと暮らす日々に救われた。それを訴えたかったのに、言葉にすることはできなかった。
だって、思い知ってしまったから。
彼と一緒に過ごした日々は、私にとってはきらめく日々。
でも、彼にとって私と過ごした日々は、痛みと後ろめたさの象徴だ。