エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~

 ころん、と消しゴムが転がった。隣の席で勉強をしていた女子高校生のものだった。私たちの席まで転がったそれを、正俊さんが拾った。そうして、彼の手がそれを女の子に返したとき、ぎゅっと胸が締め付けられて、言いようがない程に切なくなった。

 正俊さんのことが好き――と、その途端に自覚した。きっともうずっと前から、私は彼のことが好きだった。

 窓越しに差し込む午前のきらめきのさなかで、ミルクたっぷりのカフェオレと、プレーンのスコーンを味わってから、私たちはカフェを出た。





 次の図書館休館日に、その日に行けなかった横浜の美術館に行く約束をした。

 たったひとつ、胸に自覚した感情を除けば、いつも通りの日々に戻った。朝起きて、おはようを言い合って、一緒に朝食をとって出勤する。彼が早めに帰れるときは一緒に夕食を取る。一緒に夕食をとった日は、寝る前に勉強を見てもらう。穏やかで、優しい日々を繰り返した。

 10日後にやってくる私の次のお給料日には、家賃として3万円を支払う約束もした。でも――その日まで、私はここで暮らしていていいのかな。

 迷いを抱えたまま、今日も彼におはようを言った。そうしてそれぞれの職場に出勤して、いつも通りに業務を行っていた。返却図書を書架に戻していたら――。

「あの……広瀬さん」

 控えめに声を掛けられて、私は顔を上げる。

「樋口さん」

 立っていたのは、少し前に私がレファレンスを行った学生さんだ。

「すみません……前にも私を訪ねて来てくださったんですよね?」

「いえ、こちらこそお忙しいときにすみません! その……今もお仕事中ですよね?」

 樋口さんは申し訳なさそうな顔をする。私は、左手首の腕時計を見た。

「あと5分で休憩なんです。もし、授業とかの時間が大丈夫なら……」

「待ってます! 今日はもう予定がないので」

 それなら、と図書館にも近い構内のカフェで待っていてもらうことにした。私は急ぎ返却図書の配架を行い、カートを事務所に戻す。
 そうして、お昼の休憩に入ると同時に、財布とスマホを持って図書館を出た。

 カフェはお昼時なので混み合っている。テラス席に樋口さんを見つけたので、いったん声を掛けてから、ドリンクと食事を注文しに行った。
 ホットのカフェラテとハムレタスサンドを買って、席へ向かう。

「お待たせしました」

「いえっ! お仕事中にすみませんでした」

 ひどく恐縮した様子の樋口さんに、「とんでもないです」と手を振ってから、彼女の向かいの席に座る。樋口さんは、ホットティーとたまごサンドだ。

 ひとまず、いただきますをして食事を始めた。互いに一口ずつサンドイッチを食べたところで、樋口さんがおずおずと切り出した。

「あの……私。休学して、イギリスへ留学することにしました」

「わあ、すごいですね!」

 率直に思ったことを口にしたら、樋口さんは少し決まり悪そうに笑った。

「すごくないんです……全然、すごくないとずっと思ってて」

 視線を揺らめかせた彼女は、「こんなこと、話してしまって申し訳ないんですけど」と前置いてから続けた。

「私、英語には自信があったんです。でも、2年生が応募できる英米科の交換留学プログラムに選ばれなくて……プログラムに選ばれた子は何でも優秀な子で、ビブリオバトルでも、いつも一番読みたい本に選ばれていました」

 樋口さんの声が、わずかに淀む。

「だから、私も一番にならなきゃ、ビブリオバトルで勝たなきゃってずっと焦ってて……それでプログラムの選考がやり直されるわけじゃないのに、ずっとずっと必死で。何でこんなに必死なのかも、もうわからなくなってて」

 そこで言葉を切った樋口さんが、私に眼差しを向ける。

「そんなときに……広瀬さんに本を探してもらって、ようやく目が覚めました」

 樋口さんが微笑む。その瞬間に、私の胸の内でとくんと心音が響く。

「何で私は留学がしたかったんだろう。それは、イギリスのファンタジーが好きだからだよねって……。最初のきっかけを思い出しました。いつの間にか、『あの子に勝ちたい』っていうふうに目的が変わっていたけど」

 樋口さんは微笑んだまま、晴れやかな声で続けた。

「だから両親を説得して、大学を休学して7月までアルバイトをすることにしました。お金を貯めて、9月からイギリスに留学します」

「応援しています」

 心から、そう思った。彼女が選び取った道に、かけがえのない日々がいくつも待っていることを願った。

 樋口さんと連絡先を交換して別れたあと、図書館に戻りながら、何故だか目の奥が熱くなった。
 図書館の職員用のお手洗いに駆け込んで潤んだ目をティッシュで抑えた。そうして、急いでメイクを直して事務所に戻ると、佐々木さんとばったり行き会った。

 佐々木さんは、ビブリオバトルを主に担当している職員さんだ。
 私と同じく、お昼休憩から戻ってきたばかりの様子の彼女に、少し迷ってから聞いてみる。

「ビブリオバトルの、参加者の方からの感想や意見って、どこかにまとめられていたりするんでしょうか?」

「ああ! ちょうどね、できたばっかりなの」

 ふふっと笑った佐々木さんは、彼女の席に案内してくれた。
 そこにあったのは――。
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