エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
 着ていく服がないな、と思った。
 ラベンダーのワンピース以外、お出かけに相応しい服を持っていない。

 いつも同じ服なのも決まりが悪いけれど、かといって、普段仕事のときに着ている服もお出かけには不相応だ。紗良さんのお誕生日パーティーに参加するために正俊さんがプレゼントしてくれた淡いブルーのワンピースもあるけれど、それを着るのは気が引ける。あの装いはあくまでも、彼の婚約者を演じるために用意されたものだ。

 結局、ラベンダーのワンピースを着ていくことにした。せめて少しでも印象が違って見えるように、髪を低めのシニヨンにまとめて青い薔薇のヘアピンを挿す。

 準備ができたので、マンションを出た。正俊さんは午前中だけ仕事だから、虎ノ門で待ち合わせだ。

 マンションから虎ノ門までは、歩いて数分。虎ノ門駅の近くには、住居エリア、オフィスエリア、商業エリアが混合した高層ビルがある。その中の、商業エリア1階にあるインフォメーションセンターの前が正俊さんとの待ち合わせ場所だった。

 待ち合わせの時間より、随分早く到着してしまった。だから、商業エリアを見て回ることにした。

 ガラスの天井から降り注ぐ、プリズムのきらめきみたいな明るい日差し。その眩さに感嘆しながら、1階から見て回った。どのお店もラグジュアリーな雰囲気で、見慣れたコンビニでさえも、看板や店内の色が違って高級感がある。

 気後れする気持ちもあるけれど、すごい、と素直に憧れる気持ちのほうが強かった。2階を見ていたところで待ち合わせの時間が近づいてきたので、1階に下りようと思った。エスカレーターまで向かおうとしたところで、

「えっ……真理菜ちゃん?」

 驚いたような声が私を呼んだ。私は肩を強張らせる。美しすぎるピアニスト。テレビ以外で、この声を聞くのは随分と久しぶりだった。

「お姉ちゃん……」

 振り返ると、背の高い男性と腕を組んだお姉ちゃんが、私に向かって手を振っていた。

「えーどうしたの、こんなところで~」

 真っ白なオフショルダーのワンピースを着たお姉ちゃんは、隣の男性の耳にくちびるを寄せて、「妹なの」と囁く。30代中頃に見えるその男性は、「こんにちは」と私に笑いかけた。

絢音(あやね)ちゃんとは雰囲気が違うけど、可愛いじゃん」

「そーでしょう。自慢の妹なの~!」

 お姉ちゃんが私に眼差しを向ける。その瞬間、背筋が凍ったような心地になって立ちすくむ。

 ――真理菜ちゃんは、いかにも純粋です~みたいな顔してるもんね。そういうの、男子は好きだもんね~。

 いつか、にっこりと笑いながらお姉ちゃんが言った。その日以降、何故だか学校内で、私がいろいろな男の子に色目を使っているという噂が立った。

「あ……私、待ち合わせをしているから」

 ぎこちなく笑って、その場を立ち去ろうとした。だけど、

「え~誰と?」

 お姉ちゃんが私に詰め寄る。

 正俊さんのことをどう説明すればいいのかわからなくて口ごもる。すると、「彼氏でしょ~!」とお姉ちゃんが畳みかける。
 それに曖昧に笑って、「時間だから、行くね」と無理矢理話を終わらせた。踵を返して、お姉ちゃんの姿が見えなくなるまでは歩いたけれど、エスカレーターが見えた途端に小走りになった。

 何故だか呼吸が上擦っていて、エスカレーターに乗った瞬間、手すりに手をついて長く息を吐く。
 早鐘を打つ鼓動もうるさくて、まるで長い距離を走ったあとみたいな心地で、ようやくの思いで待ち合わせ場所に向かった。

 でも――もうすぐ正俊さんに会えるから、そうしたら、胸を締め付ける不安も全部消えると思った。

 だけど、待ち合わせ場所に立っていたら、礼儀正しくて冷ややかな声音が私を呼んだ。

「広瀬真理菜さん」

 はっと息を呑んで視線を上向ければ、彼が――神楽坂さんが薄く笑う。

「結城から、伝言を預かっています」

 かつん、と彼が私との距離を詰める。その刹那、世界を構成するすべての音が、私たちから遠ざかったような感覚に陥った。
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