エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~

*4章* 12時の鐘

 バッグの中で、スマホがふるえた。私がバッグへ眼差しを向けると、

「ああ、結城かもしれませんね」

 神楽坂さんが無感動な声で言った。慌ててスマホを取り出すと、確かに正俊さんからで、『すみません。大臣との打ち合わせが入ったので送れます』とのメッセージが入っていた。『送れます』は『遅れます』の誤字だろう。

 スマホから視線を上げた私に、神楽坂さんは人の好い笑みで言う。

「先程、官邸で結城に会いまして。あなたと待ち合わせをしていて遅れそうだが、連絡を入れられないかもしれないと言うので、俺が伝言を引き受けました」

 俺は新聞社の人間なので、結城とは会いたくもないのに会うことが多くて――と神楽坂さんが微笑む。

「……伝言を、教えてくださってありがとうございました。あの、もう大丈夫です」

 彼に一礼をして、そのままビルを出る。正俊さんがもう少し仕事なら、どこかカフェにでも入って時間をやり過ごそうと思った。このビルのカフェだと少し緊張してしまうから、どこか大通りに出たところで――などと考える私の後ろから、足音がついてくる。

「あの……」

 大通りに出たところでたまらずに振り返ると、神楽坂さんは私を見下ろしてにっこりと笑った。

「約束を反故にする不誠実な男なんて見切りをつけて、俺とデートをしませんか?」

 不誠実、という言葉にむっとした。

「正俊さんは仕事なので」

 投げつけるようにそう言ったら、神楽坂さんが笑みを深める。――えっ、と私は戸惑う。

「そう。あいつは仕事が恋人のような男だ」

 言質を取られた。咄嗟に、そう思った。
 神楽坂さんから視線を逸らそうとするのに、彼の眼差しがはらむ緩やかな圧がそれを許さない。

「浮いた話なんて聞いたことがなかった。婚約なんて寝耳に水だった」

 神楽坂さんは淡々と事実を述べる。そうして、優しい声音で問いかける。

「結城は本当に、あなたを愛している?」

 ――どくん、と胸の内で低い心音が鳴った。途端に自分の視線が揺らいだのがわかった。

「……婚約者です」

 精一杯、彼の目を見返してそう言った。だけど、

「なるほど」

 神楽坂さんは愉快でたまらないといったふうに目を細めて、私の左手に視線を向けた。
 視線を向けられた瞬間、思わず、左手を背中の後ろに隠した。プリンセスカットの指輪は返したから、私の薬指には何も嵌まっていない。だけど咄嗟のその動きが、彼の疑惑を確信に変えるのに十分だった。

 あ、と息をこぼす私に、彼がもう一歩近づいた。彼の右手が私のこめかみに伸びて、びくりと肩を竦めたら、彼の指先が髪に触れた。

 そうして、私の髪から青い薔薇のヘアピンを抜き取った。

「な……っ」

 取り返そうと手を伸ばしたら、彼は微笑んで、高い場所でヘアピンを手のひらに握り込む。

「紅茶一杯だけ、お付き合いください。叶えてくださったら、お返しします」

 彼がヘアピンを胸の内ポケットに仕舞ったところで、正面の信号が青に変わった。

「青です。どうぞ、エスコートします」

 神楽坂さんが私に手を差し出す。
 その手を取ってはいけないと、頭の中でけたたましい警鐘が響いている。

 だけど、こちらを見下ろす微笑みの、その眼差しには有無を言わせないような圧があった。
 私は彼の手のひらに指先を重ねた。そうしたら彼は微笑んで、私の手を引いて道路の向こう側へと渡った。
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