エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
 神楽坂さんが選んだのは、チェーン店ではない、明治時代の東京を思わせるような懐古的なカフェだった。白い壁に黒檀の柱、アーチ型の窓。傘付きの照明の暖色の灯りが優しくて、本来なら気持ちが落ち着く場所なのだろう。

 素敵な雰囲気とは裏腹に、私の気持ちは落ち着かなかった。彼は紅茶で、私はホットのカフェオレ。注文を通したあと、神楽坂さんの向かいに座る私は、彼と目を合わせないように俯いていた。

 ふっ、と彼が笑う気配がした。

「何の話をしましょうか」

 声音は、あくまでも紳士的で友好的だ。
 でも、ここに連れてこられた経緯が経緯だ。

「話すことなんてありません」

 私の返答は頑ななものになる。

 それでも神楽坂さんは気を悪くした様子もなく、「それなら……」と話を切り出した。

「K大学総合政策学部首席入学、首席卒業、卒業生総代」

 突然並べ立てられた言葉に、え、と戸惑う。思わず顔を上げてしまったら、私の眼差しを捉えた彼が不敵に笑う。

「結城の話です」

 そう種明かしをされて、先程の言葉の意味を理解した。K大学総合政策学部首席入学、首席卒業、卒業生総代。これは、正俊さんの経歴だ。正俊さんは、K大学に首席で入学して首席で卒業し、卒業式では代表として挨拶を務めた。

 正俊さんの優秀さを改めて思い知って、呆気に取られる。そんな私に対して、神楽坂さんは何でもないことのように言った。

「俺は、総合政策学部の次席入学でした」

「すごい……」

 思ったことが素直に口に出た。安直な感想だったかもしれないと恥ずかしくなる。

 神楽坂さんはにこりと笑うと、「猛勉強しましたから」とさらりと言った。

 カラン、と水のグラスの中で氷が音を立てた。その残余が消えてしまったあと、神楽坂さんはすっと眼差しを温度を下げた。

「俺たちは、K大学に入りたくて猛勉強しました。K大生であることが俺たちの誇りだった。だけど、俺たちの誰よりも優秀だったあいつにとって、K大生であるということは不名誉だった」

 私は、はっとして眼差しを揺らした。――でも俺は現役生のときにT大に落ちて、私立のK大に入学した。

 まるで自嘲のような微笑みを浮かべて、そう言った正俊さんの声が耳の奥に響く。

「あいつは、T大に合格すればいつだってK大を辞めるつもりだった」

 神楽坂さんの声は淡々と事実を述べるだけ。だからこそ、神楽坂さんが正俊さんに抱く憤りが混じり気なく伝わってくる。

「あいつにとっての在るべき姿は、T大卒の財務官僚。だけど現実のあいつは、K大卒の文科省官僚。そんなあいつが考えるとしたら」

 神楽坂さんが言葉を切る。そうして、見定めるように私に視線を向けた。

「今度こそ誰にも難癖をつけられないように、事務次官にまで上り詰める」

 どくん、と私の胸の内で低く鼓動が響く。神楽坂さんは一切の手加減をせずに、私の動揺へと切り込んだ。

「その目的を達成すうえで、事務次官とのコネクションを示す紗良は難癖になってしまうから。だからあいつは紗良を遠ざけたかった」

 神楽坂さんの口元が不穏に歪む。笑みのようなかたちを作って、私に問いかける。

「あなたは、そのための手段?」

 その問いかけに、答えることができなかった。私は不安定に眼差しを揺らして、口をひらいて、だけど何も言えずに閉じた。

 そこで注文していた飲み物がやってきて、神楽坂さんは私から眼差しを外した。

 私の前に、ホットのカフェオレが置かれた。神楽坂さんの前にも、紅茶のカップとポットが置かれた。

「飲みましょうか。冷めてしまう前に」

 神楽坂さんは、美しい手つきでポットからカップに紅茶を注いだ。そうして、カップを口元に運んで一口含むと、

「フランス式ですね」

 と、呟いた。その瞬間の彼の眼差しに、優しさと、途方もない切なさが過ったような気がした。
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