エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
風が吹いて、木々が騒いだ。足元に降る木漏れ日が慌ただしく移ろって、世界の音が束の間遠ざかった。
――俺は、真っ当に恋をする勇気もない臆病者です。
逆光の淡い影色の中で、取り落とすようにそう呟いたあなたは、あのとき何を思っていたのだろう。
立ち尽くす正俊さんと目が合った瞬間、あ、と私は青ざめた。瞳が激しくふるえて、呼吸がたちまちに浅くなった。
違います、と訴えようとした。だけど、何を弁解するつもりなのかとほんの一瞬迷った隙に、私の身体を知らない匂いが絡めとる。
――結城は本当に、あなたを愛している?
――あなたは、そのための手段?
立ち尽くす私の耳の奥に、神楽坂さんの声が打ち付ける。真っ暗なトンネルの壁を叩くみたいにがんがんと響いて、私の言葉を壊してゆく。
違います、なんて主張してどうするの? 私はそういう立場じゃないでしょう?
私は、正俊さんの恋人でも何でもない。
「……あ、」
弱く息を吐いて、身体の力を抜いた。何故だか頬が緩んだから、もしかしたら私は笑っているのかもしれない。
「――神楽坂」
低い声で呟いた正俊さんが、一歩で神楽坂さんに詰め寄る。その勢いで神楽坂さんの肩を掴んだけれど、正俊さんの視線を受け止めた神楽坂さんは――ふっ、とまるで勝ち誇ったように笑った。
その瞬間、正俊さんの眼差しが揺らいだ。
何も言わずに、突き放すように神楽坂さんから手を離した正俊さんは、ゆっくりと私に向き直る。
静かな眼差しで私を見た彼は、ひとつまばたきをしてから口をひらいた。
「俺のせいでまた、予定を駄目にしてすみません」
透き通った鐘の音が、どこか遠くで聞こえた気がした。
正俊さんは、優しく微笑んで告げた。
「今日はもう帰りましょう。そして――、」
鐘の音が鳴るのは、きっと12回。
「話をしましょう、真理菜さん」
「……はい」
彼に応じる声がかさかさに掠れた。眼差しを俯ける私は、世界の流れに取り込まれる。
秒針の響きを、美しい鐘の音が追いかける。
幸せだった時間は終わり。
ほら――魔法が解ける時間だ。