エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
 虎ノ門からマンションまでは、徒歩でたった数分しかかからない。だからあっという間にマンションに着いた。

 私たちは視線を合わせないままリビングに立っていた。カチリ、と秒針の響きが明瞭に聞こえる。一欠片ずつ、時間が沈黙へと墜落してゆく。

 パノラマビューの窓から差し込む、レースカーテン越しのオレンジの光。隣り合って座って話したソファ。肩が触れ合いそうな距離で、ノートを覗き込んだガラスのローテーブル。

 きらめく日々を過ごした場所で、私にかけられた魔法が解ける。

 正俊さんが私を振り返った。彼のまばたきに伴って、睫毛の先でオレンジの光が弾けた。

「俺は最低でした」

 静かな声で彼が言う。

「あなたが困っているところにつけ込んで、300万であなたの恋を買った」

 私は目を見ひらく。買った、なんてとてもひどい言葉で、どうして私たちを定義づけるの。
 ちがう、私は、そんなこと。

「人として、決して許される行為ではなかったと後悔しています。せめて……俺が提示した役目をあなたが果たしてくださったとき、終わりにするべきだったのに」

 うろたえる私の前で、正俊さんは穏やかに微笑む。
 晴れやかに――何の未練もないという眼差しで。

「あなたの恋をお返しします。あなたは、俺の側にいるべき方じゃない」

 微笑んだまま、彼は続けた。

「あなたには素敵な未来があります」

「で……でも……私は、子ども図書館の夢を応援してもらって、勉強も教えてもらって、正俊さんにたくさん、」

 恋を買われたんじゃない。助けてもらったつもりでいた。優しいあなたに助けられたから、助けてもらったぶん私も何かを返したいと、そう思っていた。

「何か……何か私も、正俊さんの力になりたくて」

 彼の輪郭をふちどるオレンジの光が綺麗で眩い。

「真理菜さんが、これ以上俺のために何かをする必要はありません。あなたは優しいから心配をしてくれるけれど……俺は平気ですから」

「平気……」

 綺麗で眩い景色の中で呟いて、弱く吐き出した息を取り落としたあとに、私は力なく目を瞑る。

 瞼の裏に、オレンジの残像が光っている。それに呆然と浸りながら、「いなくなっても平気ですか」と問うた。

 正俊さんからの返事はない。私の呼吸の音が、オレンジの残像の中で耳障りに掠れている。

 浅い息をふたつ繰り返して、瞼をひらいた。室内に差し込む光の角度がほんの少し変わって、彼の面差しが淡い逆光に染まる。

 どくん、と胸の内で低い心音が響く。問いただすべきじゃないとわかっていた。だって、そのあとに私が泣きたくなるだけだから。

 それを問うべきじゃないと、わかっていたのに。

「たとえば……私が、神楽坂さんと婚約しても平気ですか」

「――もちろん。あなたが幸せなら」

 未来は、正俊さんと描きたかった。

 それを言いたかったのにもう言えない。だって、浅く呼吸をする私の前で、彼は静かに微笑んでいる。

 こんなに苦しいのは、私だけだ。

「……わかりました」

 私も、観念して彼に微笑む。ゆっくりとまばたきをして、彼と正面から向き合って、微笑んだまま彼に告げた。

「今日まで、ありがとうございました」

 どこか遠くで聞こえていた、鐘の音はもう聞こえない。

 魔法はすべて解けてしまった。
 幸せだった時間は終わり。
 たとえページをめくっても、奇跡なんて存在しない。

 だってこれは、ありきたりなパンプスしか持たない――ただ、あなたに恋をした私の物語。
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