エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
 渡されていた合鍵を返した。私の荷物の引き取りについては、業者さんを手配してから後日連絡をすると伝えた。その他、いくつかの事務的なやりとりのあと、トートバッグひとつぶんの荷物を持って、2ヶ月を過ごした1401号室を出た。エレベーターでロビーまで下りて、オートロックのガラスのドアを出た瞬間に涙が溢れた。息を呑んで、頬を手の甲で拭った。それでも、次から次に涙がこぼれる。奥歯を噛んで俯いて、覚束ない足取りでようやく風除室を出たところで、視界のふちに靴先が踏み入った。

 私はのろのろと顔を上げる。

「……神楽坂さん」

 逆光の中に、私を追い詰めたそのひとが立っていた。もしも劇的な物語なら、私は彼に掴み掛かって何かを言うのだろうか。

 そんなことを、他人事のように考えた。涙を流しながら立ち尽くして、ただ呆然と神楽坂さんを見ていた。

「こちらをお返ししていませんでした」

 神楽坂さんが微笑む。そうして、私の前に青い薔薇のヘアピンを差し出した。

「……そうでしたか」

 私は片手で涙を拭ってから、その手を神楽坂さんへ伸ばす。夕日を受けて、青のビーズが鮮烈にきらめく。

 ヘアピンを受け取って、そのまま彼とすれ違おうとした。

「結城は、あなたをまた傷つけたんですね」

 すれ違おうとした瞬間、神楽坂さんが抑揚のない声で言った。

「違います……っ」

 憤慨して振り返ったら、手首を掴まれた。はっとして後ずさるけれど、もう片方の手も捕まえられる。

「俺があいつを忘れさせます」

 不敵で尊大な声が言った。でも、口調があやすように甘かった。

「だから、俺と夢を見ましょう」

「……ゆめ、」

 私は弱く呟く。頬を伝った涙が、オレンジの世界へ落ちてゆく。

「俺は、あなたを傷つけるようなことは言いません」

 甘い囁きが、髪の先から私に絡まってゆく。――だめ。ちがう。いけない。

 彼を見つめる瞳はふるえているのに、私は動くことができない。

「ここは少々……夕日が眩しいから。もっと静かで、落ち着ける場所がいい」

 神楽坂さんは私の両手首を離すと、私の肩を抱き寄せた。

「行きましょう。――真理菜さん」

 足元のタイルに散らばった涙は、砕けたガラスと同じ色をしている。
 まるで操り人形みたいに、彼の言葉に従順に応じた。

 ガラスの靴の残骸みたいに、私は涙を置き去りにした。
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