エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
 歩いても十分とかからない距離だった。だけど神楽坂さんはタクシーを使った。きっと夢に誘われる道行きで、意思がだんだん明瞭になって、はっと目が覚めてしまわないように。

 私が俯いているあいだに、タクシーはラグジュアリーホテルの車寄せに到着した。先にタクシーを降りた神楽坂さんは、私に向かって手を差し出した。私は眼差しを伏せたまま、彼の手に指先を預ける。彼の指がそっと絡んで、丁寧に手を握り込まれる。彼のエスコートに促されて、私もタクシーを降りた。かつん、と静かな靴音がひとつ響いた。

 ロイヤルブルーの絨毯の上を歩いた。神楽坂さんは私と手を繋いだまま、フロントスタッフとほんのいくつかの言葉を交わした。それだけでルームキーが渡されて、私たちは、シャンデリアのあるエレベーターホールに通される。

 すぐにやってきたエレベーターの中で上階のボタンを押したあと、神楽坂さんはふたたび私の肩を抱いた。彼の匂いが鼻先を掠める。重たくて、濃密に甘やかなラストノート。私はゆっくりと息を吐いて、瞼の重みを受容するみたいに目を瞑る。

 やがて控えめなベルの音がして、エレベーターの上昇が止まった。目の前の扉がなめらかにひらく。

 神楽坂さんに肩を抱かれたままエレベーターを降りる。

 私たちの背中側で、静かに扉が閉まった。
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