エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
「……嘘です」
ほとんど無意識に呟いた。
神楽坂さんが、ぴたりと動きを止める。
「紗良さん、ですよね」
私がそう言った瞬間、神楽坂さんは目を瞠った。そのままおもむろに上体を起こした彼の、眼差しがすっと冷えてゆく。
カフェで私を追い詰めたあと、美しい仕草で紅茶を飲んで、『フランス式ですね』と呟いたとき。
彼の眼差しに、優しさと途方もない切なさが過った気がした。
――29年目となるわたくしの人生に携わってくださった方……皆様がわたくしの大切な先生です。
そう言って深く頭を下げた紗良さんは、勤務先でフランス語の通訳をしたのだという。
あの瞬間、神楽坂さんにあの眼差しをさせたのは紗良さんだ。
それを確信したから、私は彼に訴える。
「神楽坂さんが本当に好きなのは、紗良さんでしょう?」
神楽坂さんは答えない。感情の読み取れない眼差しで私を見ている。
「紗良さんのことが好きなら……それなら、私とこんなことは駄目です」
帰りましょう、と言ってベッドから立ち上がろうとした。
だけど、彼に腕を掴まれた。大きく目を見ひらく刹那でベッドに組み敷かれて、私は彼を見上げる体勢になる。
「駄目だと言うなら、お互い様ですね」
神楽坂さんが薄く笑う。
「俺は、あなたが俺のものになってくれたら都合が良い。そうしたら、紗良は今度こそ結城と婚約できるかもしれない」
「な……っ」
一瞬、言葉を失った。あまりにも、慈悲のない台詞だと思ったから。
だけど彼に対して憤った瞬間に、彼がもっとも無慈悲に冷遇しているのは紗良さんでも正俊さんでも私でもなくて、他でもない彼自身なのだということに気づく。
「そんなの……神楽坂さんが、だって」
紗良さんの恋を叶えるために、神楽坂さんは自分の恋を犠牲にしようとしている。
言葉を詰まらせる私を見下ろして、彼は静かに言い切った。
「俺は俺より紗良が大事です。憎らしい相手に彼女を渡しても、紗良が幸せならそれでいい」
数学や物理学の定理をそらんじるように、淀みのない声だった。それ以外に事実も真実も存在しないというような、無垢で頑なな声。
「紗良が幸せになるなら、約束も破るし偽物の愛だって囁きます」
ふっ、と眼差しを和らげた彼は、片手で私の頬を撫でる。
「結城はあなたを利用した。あなたの感情を弄んで……結果、あなたに恋をさせた」
どくん、と低い心音が胸の内で響いた。
自分の瞳が大きくふるえたのがわかった。
私を見下ろす彼の微笑から逃れたかった。目を逸らしたかったのに、私の視線は彼に絡め取られる。
「泣くのは辛くて苦しいからだ。結城に恋をして、辛くて苦しいからあなたは泣いた」
「……違います」
掠れた声で反駁した。神楽坂さんは、微笑んだまま私に問う。
「それなら、結城はあなたに何と言いましたか」
優しく聞こえる声が、私に思い知らせる。
「『愛している』と、結城はあなたに言いましたか」
――あなたが困っているところにつけ込んで、300万であなたの恋を買った。
正俊さんは、そう言った。
ほとんど無意識に呟いた。
神楽坂さんが、ぴたりと動きを止める。
「紗良さん、ですよね」
私がそう言った瞬間、神楽坂さんは目を瞠った。そのままおもむろに上体を起こした彼の、眼差しがすっと冷えてゆく。
カフェで私を追い詰めたあと、美しい仕草で紅茶を飲んで、『フランス式ですね』と呟いたとき。
彼の眼差しに、優しさと途方もない切なさが過った気がした。
――29年目となるわたくしの人生に携わってくださった方……皆様がわたくしの大切な先生です。
そう言って深く頭を下げた紗良さんは、勤務先でフランス語の通訳をしたのだという。
あの瞬間、神楽坂さんにあの眼差しをさせたのは紗良さんだ。
それを確信したから、私は彼に訴える。
「神楽坂さんが本当に好きなのは、紗良さんでしょう?」
神楽坂さんは答えない。感情の読み取れない眼差しで私を見ている。
「紗良さんのことが好きなら……それなら、私とこんなことは駄目です」
帰りましょう、と言ってベッドから立ち上がろうとした。
だけど、彼に腕を掴まれた。大きく目を見ひらく刹那でベッドに組み敷かれて、私は彼を見上げる体勢になる。
「駄目だと言うなら、お互い様ですね」
神楽坂さんが薄く笑う。
「俺は、あなたが俺のものになってくれたら都合が良い。そうしたら、紗良は今度こそ結城と婚約できるかもしれない」
「な……っ」
一瞬、言葉を失った。あまりにも、慈悲のない台詞だと思ったから。
だけど彼に対して憤った瞬間に、彼がもっとも無慈悲に冷遇しているのは紗良さんでも正俊さんでも私でもなくて、他でもない彼自身なのだということに気づく。
「そんなの……神楽坂さんが、だって」
紗良さんの恋を叶えるために、神楽坂さんは自分の恋を犠牲にしようとしている。
言葉を詰まらせる私を見下ろして、彼は静かに言い切った。
「俺は俺より紗良が大事です。憎らしい相手に彼女を渡しても、紗良が幸せならそれでいい」
数学や物理学の定理をそらんじるように、淀みのない声だった。それ以外に事実も真実も存在しないというような、無垢で頑なな声。
「紗良が幸せになるなら、約束も破るし偽物の愛だって囁きます」
ふっ、と眼差しを和らげた彼は、片手で私の頬を撫でる。
「結城はあなたを利用した。あなたの感情を弄んで……結果、あなたに恋をさせた」
どくん、と低い心音が胸の内で響いた。
自分の瞳が大きくふるえたのがわかった。
私を見下ろす彼の微笑から逃れたかった。目を逸らしたかったのに、私の視線は彼に絡め取られる。
「泣くのは辛くて苦しいからだ。結城に恋をして、辛くて苦しいからあなたは泣いた」
「……違います」
掠れた声で反駁した。神楽坂さんは、微笑んだまま私に問う。
「それなら、結城はあなたに何と言いましたか」
優しく聞こえる声が、私に思い知らせる。
「『愛している』と、結城はあなたに言いましたか」
――あなたが困っているところにつけ込んで、300万であなたの恋を買った。
正俊さんは、そう言った。