エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
「――嫌です」

 そう告げたら、神楽坂さんが目を見ひらいた。私は彼に手首を押さえつけられたまま、彼の目を見上げて言い募る。

「偽物でも、利害一致の契約でも……恋は全部、正俊さんとでなければ嫌です」

 視界がにじんで、涙がこぼれた。涙はこめかみを伝って、髪の生え際へと混ざる。

「神楽坂さんだって本当は、紗良さんでないと駄目なのでしょう……っ?」

 神楽坂さんは答えなかった。涙で視界が不明瞭だから、彼がどんな表情をしているのかもわからなかった。

 世界が息を潜めたかのような沈黙のあと、

「……泣いている女性に、非道なことをする趣味はありません」

 神楽坂さんはそう言って、私をベッドから引き起こした。そうして、ほっと息を吐く私の眦に手を伸ばして――けれど、触れる寸前に指先を握り込んだ。

「……涙を拭うのも、結城でないと嫌なのだろうから」

「嫌です」

 私ははっきりと言い切って、手の甲で眦を擦った。ふ、と神楽坂さんが笑ったような気がしたけれど、もしかしたら気のせいかもしれない。

「エスコートはしませんので、どうぞ行ってください」

 ベッドの上で脚を組んだ神楽坂さんは、手のひらで扉を示した。「はい」と私は頷いて、確かな足取りで扉へと向かう。

 ドアノブに手をかけたところで、神楽坂さんを振り返った。

 ――紗良さんに、ちゃんと好きって伝えてください。

 それを言うか迷って、結局言わないまま部屋を出た。私が神楽坂さんの幸せを祈ったところで、そんなのは彼にとって余計なお節介だ。

 エレベーターでフロント階まで下りた。ロイヤルブルーの絨毯の上を歩いて、ホテルのエントランスを出る。

 エントランスを出た途端、カツン、と硬質な靴音が鳴った。

 明瞭な音を伴いながら、私は夜色に染まりかけた街を歩く。
 私のパンプスはありきたりだ。でも、私は自分の足でこの先へ歩いていける。

 終わりを告げる鐘が響いたなら、ピリオドのその先に、私が文字を記せばいい。
 私が諦めないなら、私の物語はまだ終わらない。
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