エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
「ありがとうございます」

 私は微笑んだ。
 微笑んだまま、正俊さんの目を真っ直ぐに見て、続ける。

「でも私、幸せになりたいんじゃないんです」

 穏やかな気持ちでそう言えた。正俊さんは、虚を衝かれたように目を見ひらいた。

 私はひとつ息を吸ってから、気負いのない声で告げた。

「私は、正俊さんのことが好きです」

 正俊さんの瞳が揺れた。私はちゃんと微笑んだまま、明るい声で言う。

「だから、正俊さんと未来を見てみたかった」

 過去形だけど、未練じゃない。叶わなかった願いは大切な思い出として、胸に仕舞って生きてゆく。

「正俊さんと一緒に暮らした毎日はとっても幸せでした。私は半人前じゃないって言ってくれて、夢を応援してくれて……私は、私に自信を持てるようになりました」

 正俊さんを見つめたまま、笑みを深める。

「私に素敵な日々をくれて、ありがとうございました。これからやってくる未来も、かけがえのない日々になるように頑張ります」

 あなたが私にくれた言葉。あなたが私にくれた幸せ。きらめく日々を生きる力にして、私は未来をひらいていく。

 また友達として会ってくれますかと尋ねるかどうか迷った。特別な関係じゃなくても、素敵な友人関係を築けるなら嬉しいと思った。

 だけど、未練になりそうだからやめた。

 私はきっと、この先も正俊さんへの恋を諦めることはできないだろうから。

「ええと……その! 気持ちを伝えられてよかったです! また、どこかで会うことがあれば」

 彼に会釈をして、くるりと踵を返そうとした。だけどその刹那、切羽詰まった力加減で手首を掴まれた。

「違います……本当は、あなたを神楽坂のもとへ行かせたくなかった」

 え、と息を取り落とすと同時、私は彼の眼差しに捉えられる。
 正俊さんは、痛みを堪えるように表情を歪めた。

「神楽坂じゃなくても、誰も。俺以外の……他の誰の婚約者にもならないで」

 まるで、痛切に懇願するような声。
 正俊さん、と呆然と彼の名前を呼んだら、強く引き寄せられて抱きしめられた。

 彼の匂いが私を包む。香水じゃなくて、清潔なシャンプーか涼やかな柔軟剤の香り。

 夜風にざわめく街路樹の葉擦れ、道路を行き交う車のエンジンノイズ、私たちを知らんぷりする誰かの靴音。
 様々な街の営みのさなかで、正俊さんが祈るように告げた。

「愛しています……真理菜さん」

 掠れた息遣いが耳元に落ちる。
 私を強く抱きしめる彼の腕は、小刻みにふるえていた。
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