エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
――いつもこの席で勉強していますよね。
――一生懸命勉強してるから、頑張り屋さんだなって思ってて。……ああっ、ごめんなさい、上から目線ですよね!?
――すごい……! こんなにわかりやすい解説は初めてです!
――たくさん勉強してるから、説明も上手なんですね。
ころん、と消しゴムが転がった。それをきっかけに、隣の席のお客様に和歌の読解を教えてもらうことになった。
テーブルとテーブルをくっつけて、ふたりで過去問集を覗き込んだ。難解な文法を丁寧にかみ砕いた解説は、とてもわかりやすかった。そして、補足としてルーズリーフに書き込まれた文字が、見とれてしまうくらいに綺麗だった。
アルバイトの休憩時間は1時間。名前も聞かなかったそのひとに、勉強を教えてもらったのはたった30分。
だけど、その30分を、私は今も忘れていない。
私たちは、私たちが暮らしたマンションに帰った。合鍵を一度返したのに、まるで当たり前みたいに彼に手を引かれて、オートロックのガラス扉を通り抜けた。
エレベーターに乗って、14階まで上がった。そうして角部屋の1401号室で――私たちの関係が移り変わる。
正俊さんに促されて、先に部屋へ入った。私のあとに彼が続くと、背中側で扉が閉まった。彼が後ろ手に鍵を閉めた。シリンダーが回ったときの、硬質な響きが消えないうちに、彼が私の頬に触れた。
灯りをつけない玄関は暗いままで、ほんのわずか、リビングに繋がるドアの隙間から月色の光が漏れていた。月の光が溶けた夜は青くて、彼をふちどる影も青かった。青をまとった親指で、彼が私のくちびるをなぞる。私は瞳をふるわせて、思わず一歩後ずさった。背中が壁にぶつかった。
「ご……ごめんなさい、私っ。27歳にもなるのに、こういうことをしたことがなくて……っ」
嫌なわけじゃない。逃げたいわけじゃない。それをどうにか伝えたくて、しどろもどろに口走った。
ちゃんと年相応に振る舞えない自分が恥ずかしかった。私の幼なげな振る舞いで、雰囲気を台無しにしてしまうのが悔しかった。正俊さんは、くすっと微笑んで許してくれるのかもしれないけれど。
「――嬉しいです。あなたを、初めて知る男になれること」
「っ……!」
予想していた反応と違った。正俊さんはほんの少しも笑わなかった。熱をはらんだ眼差しで見つめられて、頭が一瞬で沸騰する。呼吸がたちまちに上擦る。
とん、と正俊さんが壁に腕を突いた。彼の影が私の視界を染める。――ぎゅっ、と目を瞑った。