エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~
 キスは、まるで花びらが掠めるみたいに額に触れた。びく、と肩が少し跳ねた。もう一度、額にキスが降りたあと、こめかみ、眦へとそっと触れる。

 十分に手加減された、稚いキスだった。それでも、私はいっぱいいっぱいで、正俊さんと視線を合わせることすらできない。

 正俊さんが、私の髪に触れる。緩やかに髪を梳いたあと、彼は微かに息を漏らした。

「……すみません。この歳にもなって、気が急いてしまって」

 いえ、と目を逸らしたまま応じた。ささやかな沈黙のあと、正俊さんが玄関の灯りをつける。

 ぱっと灯ったオレンジは、夜に慣れた目に少し眩しい。

 目を細める私を安全にエスコートするように、正俊さんが手を差し出す。

「ひとつ、話を聞いていただけますか」

 彼は、ひとつまばたきをして続けた。

「長くなるかもしれないから……よければ、温かいカフェオレを飲みながら」






 コーヒーの香りがふわりと揺らめいて、ミルクの優しい匂いと混ざり合う。正俊さんから受け取ったマグカップはじんわりと温かい。

 すぐ隣に互いの温度を感じる距離で、隣り合ってソファに座った。私も彼も、ひとくちカフェオレを口に含んだあと、正俊さんがゆっくりと口をひらいた。

「T大に落ちてから、実家はずっと居心地が悪くて……帰宅を引き延ばして、大学の近くのカフェでよく勉強をしていました」

「カフェ?」

 聞き返す声が、ほんの少し上擦った。私の意識に、遠ざかったいつかの景色が掠める。

 ――そんなわけない、と咄嗟に否定した。

 でも、私が見つめる正俊さんの面差しに、あの日の彼の面影が重なる。

 私の動揺に気づかないまま、正俊さんは話を続ける。

「真理菜さんは、きっと覚えていないと思うけど」

 ころん、と転がった消しゴムがきっかけだった。

「俺は昔、あなたに会ったことがあるんです」

 ふわりと揺らめくコーヒーの匂いと、軽やかなピアノのBGM。
 大学生くらいのあなたは、見とれるほどに綺麗な字を書くひとだった。
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