エリート官僚と偽りの婚約 ~魔法が解けるまで、あなたと仮初の恋をします~

 どれだけ努力をしたつもりでいても、結果が伴わなければ、その過程に何の価値もないのだと思っていた。

 T大に合格できなかった。
 それなのに、必死で努力したんだと主張したところでいったい誰が信じる?

 失意の中、それでも勉強するしかなかった毎日に、まるで可憐な花が咲くみたいに、ほんのひととき彩りが差した。


 ――いつもこの席で勉強していますよね。

 ――一生懸命勉強してるから、頑張り屋さんだなって思ってて。……ああっ、ごめんなさい、上から目線ですよね!?

 ――すごい……! こんなにわかりやすい解説は初めてです!

 ――たくさん勉強してるから、説明も上手なんですね。


 結果にしか意味はないと思っていた。父の眼差しはそう断じた。

 だけど、あの時間だけ――『一生懸命勉強してる』『たくさん勉強してる』――そんな言葉で、結果ではなくて過程が認められた。




「あなたがくれた言葉が唯一、俺の拠り所でした」

 正俊さんはそう言った。その言葉を聞いた途端、心に鮮やかな熱が灯った。

「覚えています」

 逸る気持ちのままに、そう言った。え、と正俊さんが目を見ひらく。

「ごめんなさい……顔は、覚えていなかったんです。でも、説明がすごくわかりやすくて、とても字が綺麗だったことを覚えています」

 私は正俊さんの瞳を見つめた。彼は、思いがけない展開に気抜けしたような表情をしていた。そしておそらくは私の方も、彼と同じ表情をしていた。

 私はぎゅっと眉を寄せた。笑いたいのに泣きたかった。様々な感情が押し寄せて、ぐちゃぐちゃに混ざり合っている。

「お父さんがいなくなってから、ずっと……世界にひとりきりみたいでした」

 無条件の愛を失くして、セピアに色褪せた私の世界。まるで遠くから眺める映画のように、音も手触りも曖昧だった。

「でも、カフェで勉強を教えてもらったあのときは、世界が私に優しい気がして……コーヒーの匂いも、ピアノのBGMも、スコーンの甘さも、ずっと忘れられませんでした」

 ぎゅっと強く眉根を寄せた。今日はもう十分過ぎるほどに泣いたのに、また視界がにじみはじめる。

「正俊さんだったんですね……」

 涙に濡れた声でひとりごちたら、ことんっ、と少し乱雑な音が鳴った。マグカップがローテーブルに置かれた音だと認識すると同時、彼の温もりが私を包んだ。

「ずっと、あなたのことが好きでした。図書館で再会した瞬間に、あなたに恋をするしかなかったのに」

 切羽詰まった力加減。私を抱きしめる彼の息遣いが、ほんの少し苦しげに掠れる。

「俺は俺に自信がなくて、恋を始める勇気がなかった」

 とくん、と彼の心音が鮮やかに聞こえる。

「偽物の婚約なんて提示するべきじゃなかったと何度も後悔しました。でも……それでも、俺はあなたを手離すことができなかった」

 正俊さんの声に悔しさや憤りがにじむ。
 私を抱きしめる腕を解いた彼は、私の目を正面から見つめた。

「周囲は俺のことをエリートだとか優秀だとか言うけれど、本当の俺は卑怯な臆病者です」

 私は首を横に振る。彼は痛みを堪えるように目を眇めて、「それでも」と祈るみたいな声で言った。

「それでもどうか……俺の側にいて欲しいです」

 苦しげに目を眇めても、彼は私から目を逸さなかった。

 私は涙をこぼしながら笑った。

「もちろんです。私は正俊さんと一緒に、素敵な未来を生きていきたいから」

 願いに連なる柔らかな息の音が、私たちの世界に溶けた。
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