さくらびと。 蝶 番外編(1)
第5章 またね
テントウムシのことがあった後、私たちは静かに病室へと戻った。
千尋さんは、時折、先ほどのテントウムシのことを思い出すかのように、窓の外のもっと遠く先の方をぼんやりと見つめている。
その横顔には、まだ深い思索の色が残っていた。
「ねえ、蕾ちゃん。」
「ん?」
「私、今日、たくさん話したけど、大丈夫だった?」
千尋さんは、不安そうに私を見た。彼女の心は、まだ色々な感情で揺れ動いているのだろう。
「全然大丈夫だよ。むしろ、千尋さんと話せて、私の方が楽しかったくらい。」
私は、そう言って、彼女に笑顔を見せていた。彼女は、私の言葉に、ほっとしたように息をついた。
「ありがとう、蕾ちゃん。」
「ううん。こちらこそ、ありがとう。」
病室には、静かな時間が流れていた。
昼間の賑わいが嘘のように、病院特有の静寂が支配している。
遠くで響く、廊下を歩く看護師の足音、定期的に鳴る時計の秒針の音。
それらが、この空間の静けさを際立たせる。
千尋さんは、ベッドの横に置いた小さな折り紙の鶴に目をやり、ふと微笑んだ。
彼女が、この病院で折った無数の鶴たち。
一つ一つに、どんな思いが込められているのだろうか。
彼女が、あの蝶の話をした時の、あの遠い目をした表情が、私の脳裏に焼き付いている。
彼女が、いじめのトラウマから解放され、あの蝶のように、自由に、そして美しく羽ばたける日が来ることを、心から願って。
「また、明日も、桜の木の下で、お話できる?」
千尋さんが、そっと私に尋ねた。その声は、期待に満ちていた。
「もちろん! いつでも、千尋さんの話、聞かせてね。」
私は、そう答えた。
二人の間には、言葉にできない、静かな、しかし確かな絆が生まれていた。
それは、まるで、春の初めに芽吹いた小さな蕾が、ゆっくりと花開こうとしているような、そんな温かい繋がりだった。
彼女との出会いは、私にとっても、看護師として、そして一人の人間として、かけがえのない成長の機会を与えてくれた。
明日も、また、この温かい繋がりを大切にしていきたい。
そう強く思った。病室の明かりが、優しく千尋さんを照らしていた。