さくらびと。 蝶 番外編(1)
第6章 壁にぶつかる時
突然の出来事だった。
千尋さんの主治医が、南先生から板垣先生に交代した。
南先生は大学病院へ一時的に赴任することになったのだ。
千尋さんの病状は安定していただけに、この人事には正直、複雑な思いだった。
板垣先生は、優秀な医師であることは間違いない。
しかし、その高圧的な態度は、繊細な千尋さんにとって、少なからずプレッシャーになるのではないかと、私は懸念していた。
案の定、板垣先生の治療方針は、これまでとは一変した。
患者の自主性を重んじる南先生とは異なり、板垣先生は、より直接的で、時に強引とも思えるアプローチを取る。
千尋さんは、そんな板垣先生の治療に戸惑いながらも、「やるだけのことは挑戦したい」と、健気に前を向こうとしていた。
「蕾ちゃん、板垣先生、ちょっと怖いけど、頑張ってみるよ」
千尋さんの言葉に、私は彼女の強さを感じ、尊敬の念を抱いた。
しかし、治療が進むにつれて、千尋さんの様子がおかしくなっていった。
幻聴がひどくなり、夜も眠れない日が増えたらしい。
些細な物音にも過敏に反応し、過呼吸の発作を起こすこともしばしばだった。
「板垣先生、千尋さんの状態、悪化しているように思います。治療方針の見直しを、お願いできませんか?」
私は意を決して、板垣先生に訴えた。
しかし、先生は私の言葉に耳を傾けるどころか、高圧的に言い放った。
「桜井さん、君のような経験の浅い看護師に、私の治療法が理解できるわけがない。患者の可能性を信じて、見守ってあげなさい」
その言葉に、私は反論できなかった。悔しかった。
無力感に苛まれた。
千尋さんの苦しみを、もっと理解してあげたい。
でも、どうすればいいのか分からない。
そんな時、千尋さんが私にこっそり教えてくれた。
「板垣先生への不満、ノートの裏に書いてるんだ。溜め込まずに、こうやって吐き出すと、ちょっとスッキリするの。」
と、悪戯っぽく笑う千尋さんを見て、私は少しだけ安心した。
彼女は、自分のペースで、この状況を乗り越えようとしているのだ。
でも、その笑顔の裏で、どれほどの苦しみを抱えているのだろうか。
私の胸は、不安でいっぱいになった。
板垣先生の治療が、千尋さんを追い詰めているのではないか。
そんな疑念が、日増しに強くなっていった。
このままでは、いけない。私は、千尋さんのために、何かしなければならない。
そう強く思った。