さくらびと。 恋 番外編(3)
夏の終わりが近づき、蝉の声が夕暮れの空に響き渡る頃。
病棟は、以前にも増して慌ただしい雰囲気に包まれていた。
患者さんの入れ替わりも激しく、蕾は連日、業務に追われる日々を送っていた。
そんな中、有澤先生が担当している患者さんの報告書類を手伝ってもらうことになった。
「桜井さん、ちょっといいかな?」
会議室に呼び出された蕾は、有澤先生の隣に座るよう促された。
夕暮れの光が、会議室の窓から差し込み、部屋をオレンジ色に染めている。
資料は、以前よりも複雑な内容になっていたが、有澤先生の指導は相変わらず丁寧で分かりやすかった。
「この部分の記述なんだけど、もう少し患者さんの心情に寄り添うような言葉遣いを心がけると、より伝わりやすいかもしれないね。」
有澤先生が、ペンを走らせる。その字は、驚くほど丁寧で、まるで楷書のように整っていた。
蕾は、その美しい文字に思わず目を奪われる。
そして、説明を求めて顔を近づけると、有澤先生の肩が、またしても蕾の肩に触れた。
「あ......。」
蕾は、息をのんだ。
有澤先生は、それに気付いているだろうか。
蕾の心臓は、規則正しい鼓動を失い、激しく脈打っている。
有澤先生の横顔は、真剣そのもので、その真摯な横顔を見ていると、蕾は自分がどれだけ彼に惹かれているのかを、改めて実感させられる。
「先生......、字、綺麗ですね。」
思わず口にした言葉に、有澤先生は少し驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな笑顔に戻った。
「ありがとう。昔から字を書くのは好きだったから。桜井さんも、丁寧な字書くよね。」
「えっ、そうですか......?自分では、全然そんなこと......。」
蕾は、顔が熱くなるのを感じた。
有澤先生が、自分の字も見てくれている。
この近すぎる距離感に、蕾は戸惑いながらも、幸福感に包まれていた。
「本当に助かりました。先生のおかげで、うまくまとめられそうです。」
「いや、桜井さんが一生懸命やってくれるから、僕もついついね。」
有澤先生は、そう言って、優しく蕾に微笑んだ。
その温かい表情ひとつひとつが、蕾の心にじんわりと染み渡っていく。
二人の間には、医師と看護師という関係性だけでは語れない、特別な空気が流れていた。
それは、まるで夏の終わりの風のように、甘く、そして切なかった。