ガラスの魔法、偽りの花嫁

第9章 真実の輪郭

 屋敷の中に冷たい沈黙が漂っていた。
 透真に「好きにしろ」と突き放された夜から、玲奈はほとんど顔を合わせていない。

 同じ屋根の下にいながら、まるで別の世界に住んでいるようだった。

(……どうして、こんなことになってしまったんだろう)

 鏡の前で化粧を落としながら、玲奈は自分に問いかける。
 ガラスの中に映るのは、どこか怯えた瞳の自分。
 それでも――「ディア・グレイス」の口紅を手に取ると、心がわずかに強くなる。

(私は……私らしくいたい。せめて、自分だけは見失わないように)



 その頃、透真は自室の執務机で香水の試作ボトルを見つめていた。
 無色透明の液体の中に、自分の感情を閉じ込めるかのように。

「……どうしてあんな言い方しかできない」

 呟きが夜に溶ける。
 玲奈が他の男と笑みを交わす姿が、何度も脳裏に浮かぶ。
 胸を焼く嫉妬と後悔。
 だが、その感情を認めれば、自分が脆くなる気がして、透真は言葉にできなかった。



 翌日、玲奈はデパートの企画チームと共に新しい香水の発表準備に追われていた。
 その場で、あるスタッフがぽつりと口にした。

「この香り……篠宮社長が自ら開発に関わっているらしいですよ」

「……え?」

 玲奈は思わず顔を上げた。
 スタッフは続ける。

「珍しいですよね。普段は経営の最前線にいて、研究にまで顔を出すなんて。
 でも、この新作は“特別な意図”があるらしくて」

 玲奈の胸がざわめいた。
 特別な意図――それは誰のために?
 美咲のためなのか、それとも……。



 その夜。
 屋敷のバルコニーで、玲奈は夜風に揺れる街を眺めていた。

 すると背後に気配がした。
 振り返ると、透真が立っていた。

 月明かりに照らされた彼の横顔は、どこか影を帯びている。
 二人の間に沈黙が落ちる。

 耐えられなくなった玲奈が口を開いた。

「……どうして、隠すんですか。美咲さんのことも、香りのことも……」

 透真の瞳が一瞬揺れた。
 だが、すぐに冷たさを装う。

「お前には関係ない」

 玲奈の胸に鋭い痛みが走る。

「……やっぱり、そうなんですね」

 声が震える。
 疑念と寂しさが混ざり合い、涙が滲む。



 透真は一歩、玲奈に近づいた。
 けれど伸ばしかけた手は途中で止まり、空を掴む。

「……お前が思っていることは、違う」

 その言葉は、まるで断片的な真実を示すようだった。
 しかし、玲奈の耳には届かない。

「違うって、何が……?」

 問いかけても、透真は答えない。
 ただ月明かりの下で視線を逸らすだけ。



 玲奈の胸の奥で、ガラスのように揺れる感情が音を立ててひび割れていく。

(この人の本当の心を、私は知ることができない……)

 だが同時に――確かに漂う香りが玲奈を惑わせる。
 甘く、切なく、胸を締めつける香り。

 その香りこそが、透真の本当の想いの輪郭なのではないか――。

 玲奈は、答えの見えない迷路に取り残されたまま、夜風に震えていた。
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