ガラスの魔法、偽りの花嫁
第14章 崩れゆく均衡
夜会から戻った屋敷は、静寂に包まれていた。
けれど玲奈の胸は、嵐のように荒れていた。
美咲の囁きが、何度も頭の中で繰り返される。
――「この香りは私との記憶」
――「あなたに透真は抱えきれない」
ベッドに腰を下ろした玲奈は、両手で顔を覆った。
信じたい気持ちと、信じられない現実。
心が真っ二つに裂かれていく。
一方、透真は執務室で一人、グラスを傾けていた。
赤い液体が揺れるたび、自分の心のざわめきが映るようだった。
(俺は……何をしている)
玲奈を守るつもりで作った契約。
だが、その契約が彼女を苦しめている。
手を伸ばしたいのに、触れれば壊してしまいそうで。
冷たい言葉で距離を作ることしかできなかった。
均衡を保つはずの契約が、いまや二人を引き裂く鎖になっていた。
翌朝。
食卓についた玲奈は、無言のままパンを口に運んでいた。
そこへ透真が現れる。
侍女たちの前で、二人は“完璧な夫婦”を演じる。
透真がカップにコーヒーを注ぎ、玲奈の前に置く。
その仕草ひとつで、周囲は安堵の笑みを浮かべる。
けれど――。
玲奈の胸は張り裂けそうだった。
(これは、全部仮面……)
グラスの中の水面が揺れ、玲奈の視界も滲む。
午後。
玲奈はデパートで打ち合わせを終え、スタッフと別れた後、廊下で美咲とすれ違った。
「まあ……偶然ね」
微笑む美咲。
「今日のあなた、とても頑張っていたわ。……でも無理してない?」
玲奈は足を止め、答えられなかった。
美咲の瞳には、余裕と優越感が宿っている。
「透真は、優しいようで残酷よ。あなたが知らない顔を、私は知っている」
その言葉は玲奈の心を揺らし、均衡を崩す刃となった。
夜。
屋敷の廊下で透真と鉢合わせた。
視線が交わった瞬間、胸が熱くなる。
けれど、玲奈は口を開いた。
「……私たち、本当にこのままでいいんでしょうか」
透真は驚いたように目を見開く。
だがすぐに感情を閉ざし、低い声で答えた。
「契約は契約だ」
「……そうやって、全部“契約”で片づけるんですね」
玲奈の声は震えていた。
冷たい空気が二人の間に広がる。
均衡は――もう保てない。
その夜、玲奈は眠れぬまま香水の瓶を開いた。
ふわりと漂う香りが胸を締めつける。
(本当のことを知りたい……でも、知ったら壊れてしまう気がする)
ガラスの瓶に映る自分の顔は、揺れる影に覆われていた。