ガラスの魔法、偽りの花嫁

第5章 偽りの距離

 夜会から数日後。
 御園玲奈と篠宮透真の生活は、表面上は何も変わらなかった。

 朝になれば同じ屋敷から出て、夜になれば同じ屋敷に帰る。
 だが、同じ空間にいながら二人の間に言葉はほとんど交わされない。
 並んで食卓につくこともなく、透真は執務室で食事を済ませるのが常になっていた。

(私たちは、まるで見知らぬ同居人みたい……)

 大きすぎる屋敷の中、玲奈の居場所はますます小さく感じられた。



 ある朝、玲奈は透真の後ろ姿を廊下で見かけた。
 整った背中、迷いのない足取り。
 声をかけたい衝動に駆られる。

 けれど、足は動かない。
 呼び止める言葉が喉で凍りつき、そのまま彼は遠ざかっていった。

 胸の奥がじんと痛む。



 その一方で、玲奈には新しい役割が与えられていた。
 父の意向で、デパートの化粧品部門の新規企画に関わることになったのだ。

 会議に出席するたび、周囲からは「令嬢のお飾り参加」と見られているのが分かる。
 だが、玲奈は臆することなく、自分の思いを口にするようになっていた。

「この色合いは若い女性だけでなく、年齢を重ねた方にも似合うはずです。
 万人に“自分らしさ”を感じてもらえる色を提案できれば……」

 最初は戸惑っていたスタッフたちも、次第に玲奈の感性に耳を傾け始める。
 彼女がかつて鏡の前で救われた“化粧品の魔法”を、誰かに届けたい――。
 その思いが、彼女を強くしていた。



 夜。
 会議から戻った玲奈が屋敷に入ると、玄関ホールに透真の姿があった。

「遅かったな」
 低い声が響く。

 玲奈は思わず立ち止まった。
 彼が自分を待っていたのかと錯覚してしまったのだ。
 けれど次に続いた言葉は、冷ややかなものだった。

「社交の場では必ず時間を守れ。それが最低限の礼儀だ」

「……申し訳ありません」
 小さな声で返すしかなかった。

 透真の表情は相変わらず硬く、何も伝わらない。
 しかし、ほんの一瞬だけ彼の視線が玲奈の手元に落ちる。
 企画で使った資料のファイルを抱える玲奈を見て、何かを言いかけたようだった。
 だが、その唇はすぐに閉ざされた。



 寝室に戻り、窓の外を見つめながら玲奈は思った。

(どうして……こんなにも近くにいるのに、遠いんだろう)

 偽りの夫婦。
 互いに干渉せず、三年後には別れる――そう決められた関係。

 けれど、心は少しずつ勝手に動いてしまう。
 透真の香りを思い出すたび、胸が締めつけられる。
 あの香りに込められた意味を考えるたび、息が苦しくなる。



 一方、透真もまた、自室で窓辺に立っていた。
 夜風に揺れるカーテン越しに、香水の瓶を手に取る。

 指先でそのガラスをなぞり、瞼を閉じる。
 そこに浮かぶのは――披露宴で見た、玲奈の揺れる瞳だった。

(俺は……何をしているんだ)

 誰にも聞こえない独白が、静かな部屋に溶けていった。
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