ガラスの魔法、偽りの花嫁

第7章 本当の色

 別居の言葉を口にした夜から、玲奈と透真の生活は本当に距離を持ち始めた。
 同じ屋敷にいながら、食事の時間を合わせることもなく、言葉を交わすことも減った。
 必要最低限の会話さえも、冷えた空気に呑み込まれていく。

 それでも、玲奈の胸にはわずかな決意が芽生えていた。
 ――せめて、自分の存在を無駄にしたくない。

 父に与えられたデパートの化粧品企画の仕事は、玲奈にとって唯一の居場所になりつつあった。



 ある日の会議で、玲奈は試作品のフレグランスを前に、勇気を持って発言した。

「この香り、確かに華やかですが……つける人によっては強すぎるかもしれません。
 もっと“その人自身の色”を引き出せるような調合をすれば、幅広いお客様に届くのではないでしょうか」

 最初はざわめいた会議室。
 だが、担当者の一人が頷いた。

「……確かに、その視点は大事だ」

 別のスタッフも口を開いた。
「御園さんの意見を取り入れて、再度試作してみましょう」

 玲奈は思わず胸に手を当てた。
 自分の声が、確かに誰かに届いている。
 それは、ガラスの箱に閉じ込められていた自分が、少しずつ外に出る感覚だった。



 会議を終えた帰り道。
 男性スタッフの一人が、エレベーターの前で玲奈に話しかけた。

「御園さんの意見、すごく参考になりました。実は僕も、香りの持続性については疑問だったんです」

 穏やかな笑顔に、玲奈も思わず笑みを返す。
「……ありがとうございます。私なんてまだまだですが、そう言っていただけると励みになります」

 二人の間に自然な会話が生まれる。
 それは玲奈にとって、久しく味わったことのない温かさだった。



 だが、その光景を見ていた者がいた。
 透真だった。

 廊下の奥から二人を目にした瞬間、胸の奥にざらついた感情が広がる。
 玲奈が他の男と笑みを交わしている――。
 それは、理屈ではなく本能的な嫉妬を呼び起こした。

(……何をしているんだ、俺は)

 視線を逸らすことができず、ただその場に立ち尽くす。
 けれど声をかけることはできない。
 冷徹な仮面の奥で、透真の心は大きく揺れていた。



 その夜。
 屋敷に戻った玲奈は、廊下で透真とすれ違った。
 ほんの数秒、互いの瞳が交錯する。

 玲奈は口を開きかけたが、言葉は喉で止まる。
 透真も同じだった。
 結局、二人は背を向けて歩き去る。

 だが、すれ違った瞬間――透真の袖口からあの香りが漂った。
 玲奈が研究室で感じた、心を揺さぶる香り。

(あの香りは……誰のために作られたもの?)

 疑念と渇望が胸の奥で絡み合う。
 “契約の花嫁”であるはずの自分が、彼の本当の色を知りたいと願っている――。

 それは、もう認めざるを得ない感情だった。



 一方で透真もまた、自室で窓辺に立ち尽くしていた。
 グラスに揺れる赤いワインを見つめながら、先ほどの玲奈の笑顔を思い出す。

 それは、自分に向けられたことのない表情。
 柔らかく、温かく、誰かを安心させる笑顔。

(俺は……彼女の何を知っている?)

 ガラスの仮面に隠された玲奈の“本当の色”に、触れたことがあっただろうか。

 嫉妬と後悔の炎が、透真の胸を静かに焼いていた。
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