明日からちゃんと嫌いになるから
そんな彼が、宮下の姓を捨てるために、母の両親……泉の祖父母の養子になったのは、彼が社会人になったタイミングだった。
『これまでお世話になりました。このご恩は一生かけてお返しいたします。母のこと、どうぞよろしくお願いします』
何度も何度も、六花の父に頭を下げて泉は宮下家を出ていった。就職先が東京だったとしても、わざわざ籍を抜く必要があったのか? その理由を父も義母も、そして泉本人も、六花には教えてはくれなかった。
ただ両親は「引き止めたいけれど、本人の意思を尊重してあげなくては」とだけ言っていたので、これが泉自身の選択であったということだけは伝わってきた。
納得しなさい。そう言い聞かされたが、それまでさんざん甘やかされて育ってきた十八歳の娘には無理な話だった。
泉が宮下の家の門を出ていってしまったところで、六花は父と継母を残して一人外に出て彼を追いかけた。
「いっちゃん! お兄ちゃん! 待ってよ……」
三月の風はまだ冷たく、彼は上着も着ていない六花に、自分のマフラーを巻いてくれた。そして、少し寂しそうな顔で言う。
「六花、もう俺はお前のお兄ちゃんやめたんだ。お兄ちゃんなんて呼ばないでくれ」
じゃあな、と最後に一言口にして、泉は去っていった。
泉は「宮下泉」から「柴田泉」になり、医療機器メーカーに就職し、最初は東京本社に勤務していた。
籍は抜いても絶縁まではせず、年に一度か二度は母に会いにきて、一緒に食事をしてくれる程度に交流はあった。その頃はまだ顔を合わせればかつての兄らしい、親しみが込められた態度で接してくれた。もちろん両親の手前もあったのだろう。
そして三年前、六花の継母で、彼の実母である真由美が病気で入院したことをきっかけに、泉はこの北陸に戻ってきた。
母のため、本社から北陸事業所にわざわざ異動を願い出たらしい。真由美は長期の療養が必要だったが、そのあいだ頻繁にお見舞いにきていて、家族思いの義兄がほこらしかった。
(やっぱり、いっちゃんはいっちゃんだ……)
どうして姓を変えたのか、結局わからないままだったけれど、根本の彼はなにもかわっていない。
六花はちょうどその頃大学四年生になっており、就職活動をはじめていた。……泉ともう一度、なるべく多くの接点を持ちたくて、彼のいる会社の面接を受けた。
泉とは違い、本社所属の総合職ではなく、転勤のない地域社員としてだが、無事に内定をもらうことができた。
それを喜んで報告すると、泉は「二人で会いたい」と六花を呼び出してきた。
彼と二人になるのは、泉が籍を抜いてからはじめてのことだった。就職のお祝いをしてもらえると思い込んでいた六花は、おしゃれをして、泉が住んでいるマンションに向かった。男の人の部屋に入るのは緊張したが、もともとは家族。変に意識してはいけないと言いきかせる。
泉もごく自然に部屋に招き入れてくれて、六花のために紅茶を入れてくれた。
六花は彼の部屋のソファーに座っていたが、泉は紅茶を手渡してきたあと、小さなローテーブルを挟んだ正面に立った。
「義父さんの反対を押し切ったんだって?」
一言目で、自分が期待したような話ではないとわかった。泉は、六花の就職を祝ってくれる気はないのだ。
「……そ、そうだけど。社会勉強も兼ねてのことだから」
「社会勉強? だったら、違う会社でやってくれ!」
ぴしゃりと言い切られ、持っていたカップから、入れたばかりの紅茶がわずかに零れた。
六花は震える手を叱咤して、これ以上紅茶が零れないようテーブルに置く。
「お兄ちゃん……?」
紅茶のかかった手より、とにかく胸が痛い。
泉がこんな大声を出したことが、今まで一度だってあっただろうか?
現実のものとは思えなくて、六花はただ呆然とした。
「その呼び方やめろ。俺とお前は兄妹じゃないって言ってるだろう。金魚の糞みたいにくっついてこないでくれ。お前のために俺がいるんじゃない。頼むから解放してくれ……いいかげんうざい」
心の底から六花を嫌悪している。本当に「うざい」と思っていることが伝わってきた。
今になってようやくわかった。なぜ彼は、宮下の家から出たかったのか。それは――。
(私だ……)
六花が、彼のことを好きだから。
お兄ちゃんと呼びながらも、彼に恋していたから。隠していたつもりだったけれど、そんなこと、とっくに見透かされていたんだろう。
「ごめんなさい……」
それ以外の言葉は、ひとつも出なかった。
『これまでお世話になりました。このご恩は一生かけてお返しいたします。母のこと、どうぞよろしくお願いします』
何度も何度も、六花の父に頭を下げて泉は宮下家を出ていった。就職先が東京だったとしても、わざわざ籍を抜く必要があったのか? その理由を父も義母も、そして泉本人も、六花には教えてはくれなかった。
ただ両親は「引き止めたいけれど、本人の意思を尊重してあげなくては」とだけ言っていたので、これが泉自身の選択であったということだけは伝わってきた。
納得しなさい。そう言い聞かされたが、それまでさんざん甘やかされて育ってきた十八歳の娘には無理な話だった。
泉が宮下の家の門を出ていってしまったところで、六花は父と継母を残して一人外に出て彼を追いかけた。
「いっちゃん! お兄ちゃん! 待ってよ……」
三月の風はまだ冷たく、彼は上着も着ていない六花に、自分のマフラーを巻いてくれた。そして、少し寂しそうな顔で言う。
「六花、もう俺はお前のお兄ちゃんやめたんだ。お兄ちゃんなんて呼ばないでくれ」
じゃあな、と最後に一言口にして、泉は去っていった。
泉は「宮下泉」から「柴田泉」になり、医療機器メーカーに就職し、最初は東京本社に勤務していた。
籍は抜いても絶縁まではせず、年に一度か二度は母に会いにきて、一緒に食事をしてくれる程度に交流はあった。その頃はまだ顔を合わせればかつての兄らしい、親しみが込められた態度で接してくれた。もちろん両親の手前もあったのだろう。
そして三年前、六花の継母で、彼の実母である真由美が病気で入院したことをきっかけに、泉はこの北陸に戻ってきた。
母のため、本社から北陸事業所にわざわざ異動を願い出たらしい。真由美は長期の療養が必要だったが、そのあいだ頻繁にお見舞いにきていて、家族思いの義兄がほこらしかった。
(やっぱり、いっちゃんはいっちゃんだ……)
どうして姓を変えたのか、結局わからないままだったけれど、根本の彼はなにもかわっていない。
六花はちょうどその頃大学四年生になっており、就職活動をはじめていた。……泉ともう一度、なるべく多くの接点を持ちたくて、彼のいる会社の面接を受けた。
泉とは違い、本社所属の総合職ではなく、転勤のない地域社員としてだが、無事に内定をもらうことができた。
それを喜んで報告すると、泉は「二人で会いたい」と六花を呼び出してきた。
彼と二人になるのは、泉が籍を抜いてからはじめてのことだった。就職のお祝いをしてもらえると思い込んでいた六花は、おしゃれをして、泉が住んでいるマンションに向かった。男の人の部屋に入るのは緊張したが、もともとは家族。変に意識してはいけないと言いきかせる。
泉もごく自然に部屋に招き入れてくれて、六花のために紅茶を入れてくれた。
六花は彼の部屋のソファーに座っていたが、泉は紅茶を手渡してきたあと、小さなローテーブルを挟んだ正面に立った。
「義父さんの反対を押し切ったんだって?」
一言目で、自分が期待したような話ではないとわかった。泉は、六花の就職を祝ってくれる気はないのだ。
「……そ、そうだけど。社会勉強も兼ねてのことだから」
「社会勉強? だったら、違う会社でやってくれ!」
ぴしゃりと言い切られ、持っていたカップから、入れたばかりの紅茶がわずかに零れた。
六花は震える手を叱咤して、これ以上紅茶が零れないようテーブルに置く。
「お兄ちゃん……?」
紅茶のかかった手より、とにかく胸が痛い。
泉がこんな大声を出したことが、今まで一度だってあっただろうか?
現実のものとは思えなくて、六花はただ呆然とした。
「その呼び方やめろ。俺とお前は兄妹じゃないって言ってるだろう。金魚の糞みたいにくっついてこないでくれ。お前のために俺がいるんじゃない。頼むから解放してくれ……いいかげんうざい」
心の底から六花を嫌悪している。本当に「うざい」と思っていることが伝わってきた。
今になってようやくわかった。なぜ彼は、宮下の家から出たかったのか。それは――。
(私だ……)
六花が、彼のことを好きだから。
お兄ちゃんと呼びながらも、彼に恋していたから。隠していたつもりだったけれど、そんなこと、とっくに見透かされていたんだろう。
「ごめんなさい……」
それ以外の言葉は、ひとつも出なかった。