おやすみなさい、いい夢を。


「……エントランスまでは送ってく」

そう言って、日向さんはいつもの調子で歩き出した。
その背中が、やけに遠く見えた。

一歩、二歩。
気づいたら、私はその背中に手を伸ばしていた。

袖を掴むつもりだったのに、
気づけばそのまま――背中に腕を回していた。

「……中野さん?」

低く戸惑う声。
それでも、すぐには離れられなかった。

「……すみません。
 しばらく、このままで……いいですか」

声が震えていた。
言葉を選ぶ余裕なんて、もうなかった。

理緒のことも、現実も、全部怖くて、
誰かにすがるようにしなきゃ、
自分が壊れてしまいそうで。

日向さんは、すぐには何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと肩越しに息を吐いて、
ほんのわずかに体を傾ける。

「……少しだけだ」

それだけを言って、動かない。
背中越しに感じる体温が、
寒さで強張っていた指先を少しずつ溶かしていく。

静かな病棟の廊下に、
遠くで機械の電子音だけが響いていた。

それが現実の音であることが、
やけに残酷に思えた。


< 65 / 101 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop