おやすみなさい、いい夢を。
理緒の報告書を仕上げた夜だった。
誰もいない医局。
パソコンのファンの音だけが、空気をかき回している。
目の奥が焼けるように痛かった。
一行書くたびに、彼女の顔が浮かぶ。
名前を消して、症例番号に置き換える作業が、
どうしようもなく屈辱だった。
そんなとき、後ろから声がした。
「御崎」
上司の声。
相変わらず落ち着いた、よく通る声だった。
「例の宮崎理緒の件、もうまとめた?」
「……はい。一応」
「不運だったね。
まぁ、ああいうこともある」
その一言で、指が止まった。
ペンを持つ手が、かすかに震えているのがわかった。
“ああいうこともある”——?
呼吸が少し浅くなる。
抑えようとしても、胸の奥がざわついた。
「“ああいうこともある”って……それで終わりですか」
向坂先生は笑った。
まるでこちらの反応を面白がるように。
「御崎は理想を追うのが好きだねぇ。
でも結局、救えなかったんでしょう?
だったら少しでもデータとして残して、
次に繋げるのが正解じゃない?」
その瞬間、頭の中で何かが軋んだ。
「……正解?」
「そう。医療は積み重ねだ。
一人に執着していたら、百人を救えない。
泣いてる暇があったら、次の研究を進めろ。
それが“プロ”ってやつだ」
言葉が、やけにゆっくり響いて聞こえた。
たぶん、血の気が引いていた。
笑いながら“正論”を並べるその顔が、
どうしても人間には見えなかった。