おやすみなさい、いい夢を。




理緒の報告書を仕上げた夜だった。
誰もいない医局。
パソコンのファンの音だけが、空気をかき回している。

目の奥が焼けるように痛かった。
一行書くたびに、彼女の顔が浮かぶ。
名前を消して、症例番号に置き換える作業が、
どうしようもなく屈辱だった。

そんなとき、後ろから声がした。

「御崎」

上司の声。
相変わらず落ち着いた、よく通る声だった。

「例の宮崎理緒の件、もうまとめた?」

「……はい。一応」

「不運だったね。
 まぁ、ああいうこともある」

その一言で、指が止まった。
ペンを持つ手が、かすかに震えているのがわかった。

“ああいうこともある”——?

呼吸が少し浅くなる。
抑えようとしても、胸の奥がざわついた。

「“ああいうこともある”って……それで終わりですか」

向坂先生は笑った。
まるでこちらの反応を面白がるように。

「御崎は理想を追うのが好きだねぇ。
 でも結局、救えなかったんでしょう?
 だったら少しでもデータとして残して、
 次に繋げるのが正解じゃない?」

その瞬間、頭の中で何かが軋んだ。

「……正解?」

「そう。医療は積み重ねだ。
 一人に執着していたら、百人を救えない。
 泣いてる暇があったら、次の研究を進めろ。
 それが“プロ”ってやつだ」

言葉が、やけにゆっくり響いて聞こえた。
たぶん、血の気が引いていた。

笑いながら“正論”を並べるその顔が、
どうしても人間には見えなかった。

< 81 / 101 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop