おやすみなさい、いい夢を。



「日向さん。すみません。忙しいのに、突然……」

中庭に出ると、春の陽がやわらかく差していた。
ベンチの前に立つ中野さんは、両手で紙袋を抱えていた。
その姿がどこか頼りなくて、思わず声をかけた。

「……いや、いい。
 俺も、君にはロクに別れを言えてなかったのが気がかりだったから」

そう口にしてから、
久しく人に“優しく話す”という行為をしていなかったことに気づいた。

中野さんは、かすかに笑った。
でも、その笑い方はどこかぎこちなくて、
彼女がまだ理緒の死を受け入れきれていないことが、
見なくても分かった。

言葉が少し途切れて、
風が一瞬、二人のあいだを通り抜けた。

「……私も、ずっとお礼が言いたかったんです。理緒は、
 日向さんじゃなかったら、こんなに頑張れなかっただろうって思うから」

その一言に、胸の奥が小さく軋んだ。

“ありがとう”と同じ響き。
けれど、どんな慰めよりも痛かった。

俺は何も言えなかった。
ただ、視線を少し落とす。
ベンチの影が地面に伸びて、
その先に散り始めた木蓮の花びらがいくつも転がっている。

……結局、救えなかった。
理緒を“生かす”ことも、“守る”ことも出来なかった。

それでも今、
この子が俺をまっすぐ見てそんな言葉をくれる。

人はこんなにも無垢に他人を赦せるのか——
その事実が、かえって息苦しかった。

「……そう思ってくれるなら、嬉しいよ」

それだけを搾り出すように言った。
声が、思ったより掠れていた。

桜はうつむきながら、それでも少し笑った。
小さく震える指先を見て、
あぁ、この子も理緒と同じで、強いんだなと思った。

……いや、強くなった、が正解なのかもしれない。
初対面で、所在なさげに、目も合わせることができずに俯いていた姿が、不意に脳裏を掠めた。





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