一途すぎて捨てられた令嬢、辺境で溺愛されて家族も未来も手に入れました
プロローグ
夜明け前の王都は、霧のヴェールに包まれていた。
石畳の路地は濡れ、街灯の灯りがぼんやりと滲んでいる。
鳥たちがまだ眠るその静寂の中、アークライト公爵家の屋敷だけが、早くも朝の気配を帯びていた。
カノンティア・アークライトは、バルコニーの縁に腰掛け、夜明けの空を見上げていた。
淡い薄紫の空が、少しずつ金色に染まりはじめる。
彼女の膝の上には、一枚の手紙。薄いレースのカーテンが風に揺れ、インクの香りが微かに漂った。
「……殿下。今日もお健やかでありますように」
その筆跡は、まるで祈りを編むように整っていた。
どんな時も、どんな心の揺らぎも見せない筆致――彼女の誠実そのものだった。
彼女の部屋の隅には、木箱が積まれている。中には、すでに何十通もの手紙が丁寧に束ねられていた。
どれも王太子レオンハルト宛てのもの。恋慕を綴ったもの、学びの成果を報告するもの、時には庭の花が咲いたと知らせるだけの手紙もあった。
彼女にとってそれは、息をするような日課だった。
返事がなくても、責めることなど一度もなかった。
――返事がなくても構わない。
彼がこの国の未来を担う人ならば、私の言葉が少しでも慰めになればいい。
それは幼いころからの信仰にも似た想いだった。
王太子レオンハルト――幼い日の戴冠式で、彼の笑顔を見た瞬間、カノンティアの世界は音を立てて変わった。
以来、彼女は一途に想い続けてきた。
「お姉様、またお手紙ですの?」
控えめな声が響いた。
振り返ると、ドアの隙間から妹のセレナーデが顔を覗かせている。
淡い金髪をゆるく結い上げ、薄桃色のドレスの裾を指でつまむその仕草は、まるで愛玩人形のように可憐だった。
「ええ。王太子殿下への感謝を伝えるだけよ」
「お姉様は本当に真面目ですわね。でも……殿下はお忙しい方だから。お返事なんて、望んでも……」
セレナーデは小さく笑みを漏らした。
その声音には、わずかな優越の響きがあった。
だがカノンティアは、それを咎めることもなく微笑み返す。
――愛とは、見返りを求めるものではない。
母に教えられたその言葉を、彼女は何度も胸に刻んできた。
だからこそ、誰に何を言われようとも、信じた道を疑わなかった。
昼過ぎ、陽光が窓を満たすころ、カノンティアは大鏡の前に立っていた。
白い稽古用のドレスの裾を整え、背筋を伸ばす。
舞踏会で王太子と踊る。それは正式な婚約者としての務めであり、彼女が生涯を懸けて果たすべき誓いでもあった。
彼女の手首には、幼い日にレオンハルトから贈られた青いリボンが結ばれている。
少年の彼が照れたように差し出したその小さな贈り物を、カノンティアは十年以上、肌身離さず身につけていた。
「左、右、くるり……もう一度。音を感じて」
侍女が小さなハープを奏で、もう一人が拍を取る。
カノンティアは息を合わせ、優雅に回転する。
その動きは完璧だったが、彼女の胸の中は静かに高鳴っていた。
(当日の夜、殿下はどんな瞳で私を見てくださるのかしら)
想像するだけで、頬が熱を帯びた。
恋をしている。
それだけで、どんな努力も惜しくない。
「殿下……私は、貴方の隣に立つにふさわしい人間でありたい」
鏡に映る自分へ向かって、そっと呟く。
その声音は、夢見る少女のそれではなかった。
彼女の中には、誇りと覚悟があった。
夕刻。
カノンティアは薄いショールを羽織り、王都の教会へと足を運んだ。
冬の冷たい風が頬を撫で、街の屋台からは甘い菓子の香りが漂う。
どこも祭りの準備で賑わっているのに、彼女の歩みは静かだった。
教会の中はひんやりとして、白い花弁がゆっくりと散っていた。
カノンティアは祭壇の前に跪き、掌を組む。
瞳を閉じ、唇が祈りを紡ぐ。
彼女の祈りは一つ――“どうか殿下が幸せでありますように”。
その願いの中に、自分自身の幸福は含まれていない。
「神よ、私は彼を愛しています。どんな結末になろうとも、彼の未来が光に満ちているように――」
細い声が、聖堂の天蓋に吸い込まれるように響いた。
その背に、沈みゆく陽光が差し込み、金糸のように髪を照らす。
誰が見ても美しく、神聖で、そして――哀しかった。
その夜、祭りの準備で浮き立つ王都の灯が、屋敷の窓からきらめいて見えた。
人々の笑い声、楽団の練習音、遠くで鳴る鐘の音。
全てが幸福の予兆のように響く。
カノンティアは窓辺に立ち、そっと息を吐いた。
「――殿下、私は明日、貴方に見合う女性でありたい」
その微笑みは、誰よりも純粋で、まっすぐだった。
けれど、その純粋さこそが、彼女の運命を狂わせていくことになるとは――このときの彼女は、まだ知らなかった。
石畳の路地は濡れ、街灯の灯りがぼんやりと滲んでいる。
鳥たちがまだ眠るその静寂の中、アークライト公爵家の屋敷だけが、早くも朝の気配を帯びていた。
カノンティア・アークライトは、バルコニーの縁に腰掛け、夜明けの空を見上げていた。
淡い薄紫の空が、少しずつ金色に染まりはじめる。
彼女の膝の上には、一枚の手紙。薄いレースのカーテンが風に揺れ、インクの香りが微かに漂った。
「……殿下。今日もお健やかでありますように」
その筆跡は、まるで祈りを編むように整っていた。
どんな時も、どんな心の揺らぎも見せない筆致――彼女の誠実そのものだった。
彼女の部屋の隅には、木箱が積まれている。中には、すでに何十通もの手紙が丁寧に束ねられていた。
どれも王太子レオンハルト宛てのもの。恋慕を綴ったもの、学びの成果を報告するもの、時には庭の花が咲いたと知らせるだけの手紙もあった。
彼女にとってそれは、息をするような日課だった。
返事がなくても、責めることなど一度もなかった。
――返事がなくても構わない。
彼がこの国の未来を担う人ならば、私の言葉が少しでも慰めになればいい。
それは幼いころからの信仰にも似た想いだった。
王太子レオンハルト――幼い日の戴冠式で、彼の笑顔を見た瞬間、カノンティアの世界は音を立てて変わった。
以来、彼女は一途に想い続けてきた。
「お姉様、またお手紙ですの?」
控えめな声が響いた。
振り返ると、ドアの隙間から妹のセレナーデが顔を覗かせている。
淡い金髪をゆるく結い上げ、薄桃色のドレスの裾を指でつまむその仕草は、まるで愛玩人形のように可憐だった。
「ええ。王太子殿下への感謝を伝えるだけよ」
「お姉様は本当に真面目ですわね。でも……殿下はお忙しい方だから。お返事なんて、望んでも……」
セレナーデは小さく笑みを漏らした。
その声音には、わずかな優越の響きがあった。
だがカノンティアは、それを咎めることもなく微笑み返す。
――愛とは、見返りを求めるものではない。
母に教えられたその言葉を、彼女は何度も胸に刻んできた。
だからこそ、誰に何を言われようとも、信じた道を疑わなかった。
昼過ぎ、陽光が窓を満たすころ、カノンティアは大鏡の前に立っていた。
白い稽古用のドレスの裾を整え、背筋を伸ばす。
舞踏会で王太子と踊る。それは正式な婚約者としての務めであり、彼女が生涯を懸けて果たすべき誓いでもあった。
彼女の手首には、幼い日にレオンハルトから贈られた青いリボンが結ばれている。
少年の彼が照れたように差し出したその小さな贈り物を、カノンティアは十年以上、肌身離さず身につけていた。
「左、右、くるり……もう一度。音を感じて」
侍女が小さなハープを奏で、もう一人が拍を取る。
カノンティアは息を合わせ、優雅に回転する。
その動きは完璧だったが、彼女の胸の中は静かに高鳴っていた。
(当日の夜、殿下はどんな瞳で私を見てくださるのかしら)
想像するだけで、頬が熱を帯びた。
恋をしている。
それだけで、どんな努力も惜しくない。
「殿下……私は、貴方の隣に立つにふさわしい人間でありたい」
鏡に映る自分へ向かって、そっと呟く。
その声音は、夢見る少女のそれではなかった。
彼女の中には、誇りと覚悟があった。
夕刻。
カノンティアは薄いショールを羽織り、王都の教会へと足を運んだ。
冬の冷たい風が頬を撫で、街の屋台からは甘い菓子の香りが漂う。
どこも祭りの準備で賑わっているのに、彼女の歩みは静かだった。
教会の中はひんやりとして、白い花弁がゆっくりと散っていた。
カノンティアは祭壇の前に跪き、掌を組む。
瞳を閉じ、唇が祈りを紡ぐ。
彼女の祈りは一つ――“どうか殿下が幸せでありますように”。
その願いの中に、自分自身の幸福は含まれていない。
「神よ、私は彼を愛しています。どんな結末になろうとも、彼の未来が光に満ちているように――」
細い声が、聖堂の天蓋に吸い込まれるように響いた。
その背に、沈みゆく陽光が差し込み、金糸のように髪を照らす。
誰が見ても美しく、神聖で、そして――哀しかった。
その夜、祭りの準備で浮き立つ王都の灯が、屋敷の窓からきらめいて見えた。
人々の笑い声、楽団の練習音、遠くで鳴る鐘の音。
全てが幸福の予兆のように響く。
カノンティアは窓辺に立ち、そっと息を吐いた。
「――殿下、私は明日、貴方に見合う女性でありたい」
その微笑みは、誰よりも純粋で、まっすぐだった。
けれど、その純粋さこそが、彼女の運命を狂わせていくことになるとは――このときの彼女は、まだ知らなかった。
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