左遷先は月運行局分局 ――追放ヒロインのスキルで、公務も恋も大逆転
第1話 『左遷先は月運行局分局』
月曜の朝八時五分。自動扉が吐き出す空調の匂いと紙の乾いた香りが混ざり、庁舎はすでに『仕事の音』で満ちていた。咲那はカウンターの角に手帳を置き、ひと呼吸おいてから一ページ目を開く。誰かの足取りが速くなる気配に、彼女は意図的にゆっくりと頷いた。速度はうつる。ならば最初に落ち着きを見せればいい。
港町を見下ろす小高い丘の上に、分局の古びた建物があった。潮を含んだ風が屋根の風見鶏をぎぃと鳴かせ、庇の影が午前の光で薄く溶ける。咲那は革の鞄を胸に抱え、石段を一段ずつ確かめるように上った。靴底についた街道の土がはらはらと落ち、小石がかちりと鳴る。指先は封蝋の感触をまだ覚えている。濡れ衣の通達が届いた七日前、封蝋は思いのほか軽く割れた。紙は軽いのに、内容は重かった。反論の余地がないときは、まず“次に守るべき現場”を選ぶ。選んだ先が、この港町の月運行局分局だ。
玄関の木製ドアは、押すと半音だけ外した声で鳴いた。油と紙と潮の匂い。壁の時計は一瞬だけ目盛りをよそ見し、すぐ律儀に時を刻む。咲那が鞄を置くより早く、背の高い青年がぱっと手を振った。
「新しい班員だね? 咲那さん、だよね。よろしく!」
耳の後ろの癖毛がぴょこんと跳ねている。翼。笑い方が単純で、単純さに強さがあるタイプだと咲那は見た。
「はい、赴任したばかりの咲那です。こちらこそ」
ほどけかけた空気を、机をこんこんと叩く音が結び直した。所長代理の亮浩が顎をしゃくる。
「市場の結界が不安定だ。今夜の荷揚げに支障が出る。――――班は直ちに調査」
初日から現場。迷う時間は短い方がいい。必要な紙を三枚、筆記具を二本。咲那が手を伸ばすと、翼が楽器ケースでも開ける勢いで工具箱をひっくり返した。
「うわっ……!」
工具は転がり、メトロノームはなぜか自分で刻み始め、翼の心は早くも打ちのめされる。ことみがすうっと現れて、床すれすれで真鍮箔をキャッチした。
「落としても音は逃げないから、安心して」
彼女は音叉を軽く鳴らし、空気の厚みを耳で測る。倖菜は板帳に朱で“臨時許可:現場検証”と書き足し、善裕は「段取りは守れよ」と腕を組んだ。咲那は一度だけ息を整え、班の視線を受け止める。
「では、現地で“今”を見ます。机上の平均は、現場の現在で上書き」
市場へ向かう坂は二肩半。昼の熱で膨張した通りを、屋台の油の匂いと人の声が押し戻す。足音は一定になりたがらない。咲那は通りすがりの靴の減り方を一瞥した。右靴の外側だけすり減っている人が多い。ならば“右逆”に誘導すれば、身体は勝手にバランスを取る――――心の中でだけメモしておく。まだ合言葉にするには早い。
結界の“ほつれ”は、露店の銅線ランタンの列にあった。飾りの導線が結界の導線に薄く共振し、人の歩幅が半歩ずつ遅れている。紙の上だと見落とす類いの乱れ。咲那は壁に簡易の反射図形を描き、指で角度をつくった。
「角度、二・七度」
ことみが耳で針を追い、翼がランタンの留め具を支える。「誤差は?」と咲那。「半音ぶん下がるところで……今」。瞬間、風の白が細くなる。針の揺れが一拍分だけ短く、軽く。
「机の上の計画じゃ、この虹は描けないね」
翼の独り言に、咲那は頷いた。紙は必要だ。けれど紙は風を運ばない。現場の風は、模型の風よりわがままだ。
露店主が腕を組む。「標識、増やすのかい? 看板、壁になるんだよ」
「増やしません。“置きます”」咲那は紙を一枚、壁にそっと貼った。余白を広く、言葉は短く。『ここで手を止めたら、皆が助かります』。読む人の主語を“皆”にすると、紙は人の側に戻ってくる。
試しに通路の角で矢印を一つだけ、わざと逆へ向ける。人の流れは左へうねっていた。なら、右へ“逆”を差し入れる。最初の数十歩は抵抗があったが、やがて動きはほどけた。楽な方へと自然に流れる。翼が看板を持って半歩だけ前に出る。ことみは音叉で“まだ来ない音”を薄く鳴らして、足の迷いを先に小さくした。
夕暮れ、渦は消えた。通りに残ったのは、屋台の油の匂いと、小さな笑い声。倖菜が板帳を開く。「臨時許可、期間限定で更新。範囲、ここからここまで。責任者、分局」。善裕は「近道じゃない方が、結局は早い」とぼそりと笑い、亮浩は帽子のつばを指で一度だけいじった。承認の合図だ。
露店主が小さく会釈する。謝罪の言葉の代わりに、彼は自分の張り紙を一枚はがして丸め、ごみ箱へ投げ入れた。言葉は時に足りないが、所作はよく届く。
分局に戻る坂道、港の風が背中を押す。屋根のぎぃは、行きより半音明るい。翼は可視化板を脇に抱え、器用そうに見えて不器用な手つきで鍵を回した。ことみは靴を脱ぎ、床板を音叉の柄で軽く叩く。幅、厚み、角度――――音は全部、違う色で返ってくる。
「明日、もう少し“戻れる早さ”を詰めましょう」
咲那が言うと、翼は即答した。「じゃ、朝一で!」。単純な返事は、単純な強さだ。紙の矢印より頼りになることもある。
夜、分局の“半拍昼餉”。昆布茶の湯気は薄く、今日の霧の話が湯気の上で転がる。麻理江が「偽交点の剥離記録」をホチキスで留め、翼が“偽シール見分け方”の落書きを添える。咲那は粉で小さなνを書いて、星印を一つ足した。星は増えるたびに、家の天井に穴を開け、風がやさしく抜ける。
帰り際、北壁の麓で小さな紙が風に転がった。裏返すと、幼い字で「しろは、やさしい」。白は、押さないで置くもの。分局の扉を引く手に、その言葉が薄く残った。
咲那は帳面の端に一行、書き添える。『平均より現在。紙より息。――――一行から変える』。明日の余白を確かめて、チョークを一本、ポケットに入れた。
左遷先は月運行局分局の裏側メモ――
朱は旗じゃない、句読点だ。文末に置けば視線は走らず、歩幅が揃う。倖菜は朱をひと雫だけ足し、場の呼吸が半拍でそろった。
麻理江が承認印を静かに落とし、玲空のチャイムは遅れない。翼は“二肩半”を指で示し、ことみは屋根の“ぎい”が半音だけ下がったのを耳で確かめた。
現地の露店通りでは、銅線で巻いた手作りランタンがよく売れていた。夕暮れ、屋台の列を横から見た咲那は、導線の引き回しと結界の導通の角度が一致していることに気づく。風見鶏が回るたび、屋台の影と銅線が同じ位相で揺れ、境界が小刻みに震えた。
「角度を二点七度だけ、右へ」
咲那がチョークで地面に小さな三角を描き、翼が屋台の脚に木片を噛ませる。ことみは音叉を鳴らし、響きが一拍ぶん伸びたところで「今」と指を立てた。露店主の祖母が腕を組み、「それくらいで変わるもんかね」と笑った直後、風は同じ強さなのに旗のばたつきだけがぴたりと収まった。
式の一行は、【Σ ← rotate(Σ, Δψ)(Δψ=2.7°)】とだけ。紙の余白は広いほど人は安心する。咲那は余白に「屋台の祖母、花の髪飾り」とだけ書き足した。人の固有名詞は、式よりよく効く。
分局へ戻る前、古いタイムカードのスロットに翼が勢いよく手を差し入れ、「いった!」と声を上げる。指を軽く挟んだ彼を、麻理江が消毒しながら笑った。「安全に速い」を体で学ぶのは、だいたい誰かの失敗からだ。 片付いた路地で、露店の祖母が紙袋を差し出した。「角度代だよ。あんたら、腹は減る」――――中には白胡麻の飴。咲那は一つ口に入れ、歯に触れる前に溶ける甘さに、式の滑らかさを思う。紙の上だけで完成する解は、現場の舌で確かめて初めて本物になる。
分局に灯がともる。今日はいくつかの角度と、いくつかの笑いで、港は明日に間に合った。
帰路の坂で、咲那は二度だけ振り返った。角度をわずかに正した屋台の列が、風に合わせて波のように揺れ、揺れるたびに人の歩幅が自然とそろう。手帳の余白に書いた『花の髪飾り』の一行が、紙の上よりもはっきり息をする。式に書けない部分は、こうして町が補ってくれる――――そう思うと、肩に入っていた力が抜けた。
港町を見下ろす小高い丘の上に、分局の古びた建物があった。潮を含んだ風が屋根の風見鶏をぎぃと鳴かせ、庇の影が午前の光で薄く溶ける。咲那は革の鞄を胸に抱え、石段を一段ずつ確かめるように上った。靴底についた街道の土がはらはらと落ち、小石がかちりと鳴る。指先は封蝋の感触をまだ覚えている。濡れ衣の通達が届いた七日前、封蝋は思いのほか軽く割れた。紙は軽いのに、内容は重かった。反論の余地がないときは、まず“次に守るべき現場”を選ぶ。選んだ先が、この港町の月運行局分局だ。
玄関の木製ドアは、押すと半音だけ外した声で鳴いた。油と紙と潮の匂い。壁の時計は一瞬だけ目盛りをよそ見し、すぐ律儀に時を刻む。咲那が鞄を置くより早く、背の高い青年がぱっと手を振った。
「新しい班員だね? 咲那さん、だよね。よろしく!」
耳の後ろの癖毛がぴょこんと跳ねている。翼。笑い方が単純で、単純さに強さがあるタイプだと咲那は見た。
「はい、赴任したばかりの咲那です。こちらこそ」
ほどけかけた空気を、机をこんこんと叩く音が結び直した。所長代理の亮浩が顎をしゃくる。
「市場の結界が不安定だ。今夜の荷揚げに支障が出る。――――班は直ちに調査」
初日から現場。迷う時間は短い方がいい。必要な紙を三枚、筆記具を二本。咲那が手を伸ばすと、翼が楽器ケースでも開ける勢いで工具箱をひっくり返した。
「うわっ……!」
工具は転がり、メトロノームはなぜか自分で刻み始め、翼の心は早くも打ちのめされる。ことみがすうっと現れて、床すれすれで真鍮箔をキャッチした。
「落としても音は逃げないから、安心して」
彼女は音叉を軽く鳴らし、空気の厚みを耳で測る。倖菜は板帳に朱で“臨時許可:現場検証”と書き足し、善裕は「段取りは守れよ」と腕を組んだ。咲那は一度だけ息を整え、班の視線を受け止める。
「では、現地で“今”を見ます。机上の平均は、現場の現在で上書き」
市場へ向かう坂は二肩半。昼の熱で膨張した通りを、屋台の油の匂いと人の声が押し戻す。足音は一定になりたがらない。咲那は通りすがりの靴の減り方を一瞥した。右靴の外側だけすり減っている人が多い。ならば“右逆”に誘導すれば、身体は勝手にバランスを取る――――心の中でだけメモしておく。まだ合言葉にするには早い。
結界の“ほつれ”は、露店の銅線ランタンの列にあった。飾りの導線が結界の導線に薄く共振し、人の歩幅が半歩ずつ遅れている。紙の上だと見落とす類いの乱れ。咲那は壁に簡易の反射図形を描き、指で角度をつくった。
「角度、二・七度」
ことみが耳で針を追い、翼がランタンの留め具を支える。「誤差は?」と咲那。「半音ぶん下がるところで……今」。瞬間、風の白が細くなる。針の揺れが一拍分だけ短く、軽く。
「机の上の計画じゃ、この虹は描けないね」
翼の独り言に、咲那は頷いた。紙は必要だ。けれど紙は風を運ばない。現場の風は、模型の風よりわがままだ。
露店主が腕を組む。「標識、増やすのかい? 看板、壁になるんだよ」
「増やしません。“置きます”」咲那は紙を一枚、壁にそっと貼った。余白を広く、言葉は短く。『ここで手を止めたら、皆が助かります』。読む人の主語を“皆”にすると、紙は人の側に戻ってくる。
試しに通路の角で矢印を一つだけ、わざと逆へ向ける。人の流れは左へうねっていた。なら、右へ“逆”を差し入れる。最初の数十歩は抵抗があったが、やがて動きはほどけた。楽な方へと自然に流れる。翼が看板を持って半歩だけ前に出る。ことみは音叉で“まだ来ない音”を薄く鳴らして、足の迷いを先に小さくした。
夕暮れ、渦は消えた。通りに残ったのは、屋台の油の匂いと、小さな笑い声。倖菜が板帳を開く。「臨時許可、期間限定で更新。範囲、ここからここまで。責任者、分局」。善裕は「近道じゃない方が、結局は早い」とぼそりと笑い、亮浩は帽子のつばを指で一度だけいじった。承認の合図だ。
露店主が小さく会釈する。謝罪の言葉の代わりに、彼は自分の張り紙を一枚はがして丸め、ごみ箱へ投げ入れた。言葉は時に足りないが、所作はよく届く。
分局に戻る坂道、港の風が背中を押す。屋根のぎぃは、行きより半音明るい。翼は可視化板を脇に抱え、器用そうに見えて不器用な手つきで鍵を回した。ことみは靴を脱ぎ、床板を音叉の柄で軽く叩く。幅、厚み、角度――――音は全部、違う色で返ってくる。
「明日、もう少し“戻れる早さ”を詰めましょう」
咲那が言うと、翼は即答した。「じゃ、朝一で!」。単純な返事は、単純な強さだ。紙の矢印より頼りになることもある。
夜、分局の“半拍昼餉”。昆布茶の湯気は薄く、今日の霧の話が湯気の上で転がる。麻理江が「偽交点の剥離記録」をホチキスで留め、翼が“偽シール見分け方”の落書きを添える。咲那は粉で小さなνを書いて、星印を一つ足した。星は増えるたびに、家の天井に穴を開け、風がやさしく抜ける。
帰り際、北壁の麓で小さな紙が風に転がった。裏返すと、幼い字で「しろは、やさしい」。白は、押さないで置くもの。分局の扉を引く手に、その言葉が薄く残った。
咲那は帳面の端に一行、書き添える。『平均より現在。紙より息。――――一行から変える』。明日の余白を確かめて、チョークを一本、ポケットに入れた。
左遷先は月運行局分局の裏側メモ――
朱は旗じゃない、句読点だ。文末に置けば視線は走らず、歩幅が揃う。倖菜は朱をひと雫だけ足し、場の呼吸が半拍でそろった。
麻理江が承認印を静かに落とし、玲空のチャイムは遅れない。翼は“二肩半”を指で示し、ことみは屋根の“ぎい”が半音だけ下がったのを耳で確かめた。
現地の露店通りでは、銅線で巻いた手作りランタンがよく売れていた。夕暮れ、屋台の列を横から見た咲那は、導線の引き回しと結界の導通の角度が一致していることに気づく。風見鶏が回るたび、屋台の影と銅線が同じ位相で揺れ、境界が小刻みに震えた。
「角度を二点七度だけ、右へ」
咲那がチョークで地面に小さな三角を描き、翼が屋台の脚に木片を噛ませる。ことみは音叉を鳴らし、響きが一拍ぶん伸びたところで「今」と指を立てた。露店主の祖母が腕を組み、「それくらいで変わるもんかね」と笑った直後、風は同じ強さなのに旗のばたつきだけがぴたりと収まった。
式の一行は、【Σ ← rotate(Σ, Δψ)(Δψ=2.7°)】とだけ。紙の余白は広いほど人は安心する。咲那は余白に「屋台の祖母、花の髪飾り」とだけ書き足した。人の固有名詞は、式よりよく効く。
分局へ戻る前、古いタイムカードのスロットに翼が勢いよく手を差し入れ、「いった!」と声を上げる。指を軽く挟んだ彼を、麻理江が消毒しながら笑った。「安全に速い」を体で学ぶのは、だいたい誰かの失敗からだ。 片付いた路地で、露店の祖母が紙袋を差し出した。「角度代だよ。あんたら、腹は減る」――――中には白胡麻の飴。咲那は一つ口に入れ、歯に触れる前に溶ける甘さに、式の滑らかさを思う。紙の上だけで完成する解は、現場の舌で確かめて初めて本物になる。
分局に灯がともる。今日はいくつかの角度と、いくつかの笑いで、港は明日に間に合った。
帰路の坂で、咲那は二度だけ振り返った。角度をわずかに正した屋台の列が、風に合わせて波のように揺れ、揺れるたびに人の歩幅が自然とそろう。手帳の余白に書いた『花の髪飾り』の一行が、紙の上よりもはっきり息をする。式に書けない部分は、こうして町が補ってくれる――――そう思うと、肩に入っていた力が抜けた。