左遷先は月運行局分局 ――追放ヒロインのスキルで、公務も恋も大逆転

第2話 『査察作戦、机上から現場へ』

 閉庁間際、今日のメモを箇条書きにする。『1) 申請書の並べ替え、2) 問い合わせ導線、3) “待ちやすい椅子”の配置。』明日やることが明確だと、家に持ち帰る不安は薄くなる。手帳を閉じた音が、やや誇らしい。
 火曜の朝、咲那は掲示板の案内図を指でなぞって、矢印の“曲がる位置”を一歩手前に描き直した。曲がり角で止まる人が減るだけで、窓口の列は細く長く、つまり静かになる。静けさは仕事の味方だ。

 翌朝の会議室は、紙の海だった。壁一面の計画表は、赤青の線が交差して、地図というより無愛想な迷路に見える。矢印は勇ましいが、現場の風は描き込まれていない。
 「港湾ピラーの鳴動は放置できん。今日の査察は計画表どおりに」
 亮浩の指が机を叩くたび、紙の海にさざ波が立つ。咲那は視線で三周、指で一周、必要な情報だけを手帳へ写した。角度・距離・時間。三つに絞れば、靴底は迷わない。
 「これ……地図の迷路じゃない?」
 隣で翼が囁く。囁きは正しい。現場の音は図面より一歩早い。
 会議の終盤、事務方の麻理江が両腕に伝票を抱え、廊下から滑り込んできた。息を切らしながらも印鑑はきれいに押されている。彼女は視線だけで“現場へ急げ”と告げ、紙を卓上に置くとまた走った。こういう人が支えている現場は、必ず手堅い。
 港へ出ると、潮の匂いに交じって、地面から低い唸りが伝わってきた。氷室のある倉庫へ近づくほど、音は膝に重く乗る。扉を開くと、白い冷気が指先の感覚を刈り取っていく。
 「結露で数値が安定しない……」
 ことみが曇ったガラスを拭い、肩をすくめた。計測器は正直者だ。正しく扱えば、正しい顔をする。
 「壁、使えますか」
 咲那は粉筆を取り出し、壁の平面に簡易の反射図形を描いた。音を跳ね返し、位相のずれをわずかに詰める角度。翼が角度を支え、ことみが耳で針を追う。
 「――――いくよ」
 最後の符号を入れると、空気の震えは素直に収束した。針が落ち着き、氷室の息が規律正しくなる。
 「机上の計画より、現場の今を見た方が早いな」
 翼が笑う。笑いの熱で指先の感覚が戻る。咲那は壁の式に小さく印をつけ、帳面へ転記した。“氷室→反射板/角度補正”。机上の線を、現場の角度に少しだけずらす。それだけで、地図は迷路をやめる。
 帰り際、ことみが控えめに手を上げた。「今度、保育室を見学してほしい子がいて――――耳のいい子です」。翼は「子どもは現場の天才だ」と真顔で言い、咲那は頷いた。現場で一番頼りになるのは、肩書きではなく、手触りのある能力だ。
 分局に戻る廊下で、麻理江がまた走っていた。伝票の束は先ほどより薄い。必要な承認は、もう済んでいるということだ。彼女は走りながら親指をぐっと立ててみせる。言葉より速い承認印。現場の背中を押すのは、こういう“目立たない速さ”だ。
 夕方、港の方角から、祭りの太鼓がぼん、と一度鳴った。太鼓の音は街の呼吸に似ている。呼吸が速くなる前に、手当てを。咲那は手帳を開き、次のページに新しい線を引いた。右矢印と左矢印を、わざと逆に。理由はまだ言葉にならないが、予感はもうそこにある。
 氷室は息を呑むほど白かった。壁面に薄く霜が張り、指でなぞれば音がする。倖菜が吐息をすぼめる。「計測器、結露で数字が跳ねます」。咲那は濡れたタオルでレンズを拭い、かわりに壁へ視線を送った。
 「壁を使います」――――反射板。紙の計画書は机の上で威張るけれど、氷室は氷室のやり方がある。翼が板を二枚抱えて駆け、ことみが角度を指で作る。半音ぶんだけ傾けると、音は別の道へすっと抜けていった。
 会議室では、机上の平均値がきれいに整列していた。咲那は静かに紙を裏返す。裏には現場の走り書き。温度のゆらぎ、床の傾き、結露の癖。指先に付いた霜の粒が、平均値の上に小さく落ちる。「平均は嘘をつかないけど、現場の『いま』を言い落とすことがある」
 反射板の角度は、子どもが作る紙飛行機みたいに素朴だ。氷室の壁は大人ぶらずに、素直にそれを返した。計器の針が静かに沈む。ことみが耳を澄ませて頷く。「この角度、歌える」。
 保育室の約束は、その帰り道に決まった。星芽が描いたクレヨンの線は、氷の白よりずっとあたたかい。線の端に“右”と“さかさ”の文字。咲那は笑って、次の現場メモの一行目にそれを書いた。
 氷室の息が落ち着いたのを確認して、咲那は霜を指先でそっと弾いた。氷の表面が、陽に当たる前の白さで細かく割れる。空気は冷たく、しかし現場の手は温かい。「反射の角度は?」咲那が問うと、ことみは即答した。「三度、右下がり。人の出入りで一度弱ぶれる」耳が拾った微細な差を、彼女は身体の重心で補正している。よく働く耳だ。
 「やってから考えよ!」と翼は言いながらも、手元は丁寧だ。反射板代わりの壁に貼った紙を、角が折れないように撫で付ける。「紙、しわ」ことみが短く指摘する。「はい!」翼が即座に張り直し、三人の呼吸が初めてぴたりと揃った。
 外へ出ると、吐いた息がようやく白くならなくなっていた。昼の港は、荷揚げの号令と鳥の鳴き声が交互に鳴る譜面みたいだ。咲那は帳面を開いて、朝の会議で感じた違和感を一枚にまとめ始める。計画表の線は美しい。しかし美しさは、現場の汗の順序と一致しないことがある。
 「今日は、机の上から現場へ持っていくべきものを逆にしたい」
 「逆?」翼が首を傾げる。
 「机上の“平均”より、現場の“現在”。紙の理屈は現場の証拠で上書きする」
 夕刻、咲那は小型の可視化板を肩から提げ、ふたたび会議室の扉を押した。冷たい空気の筋が廊下から流れ込み、紙の束をばさりと鳴らす。倖菜の視線がこちらを見る。彼女は数字の守り手だ。ならば、数字で説く。
 「平均は、約束。現在は、心拍」
 言葉と同時に板を叩くと、青い線が規定の枠へ“入っていく”過程が見えた。倖菜の手がわずかに止まり、目の焦点が紙から現場へ移る。「臨時、許可」彼女の付箋が一枚、可視化板の端に静かに貼られる。翼が小さくガッツポーズをして、すぐにほどく。勝利の顔は、現場では汗で隠すのが礼儀だ。
 会議後、倖菜は屋台の湯気を前に、串団子の角度を直してから齧った。甘さに反応して、眉間の皺がほどける。「角度、大事」彼女がぽつりと言う。咲那も一口もらって頷いた。「そう、角度が揃うと、無駄に仲良く震えますから」
 会議室を出ると、廊下で翼が小声で囁く。「なあ、“平均は約束、現在は心拍”、あれ、今日一番かっこよかった」
 「褒め言葉の平均は一日一回で十分よ」
 「今日の現在は三回はいける」
 くだらないやり取りが、緊張の端をほどいていく。分局は、こういう小さな冗談で毎日を保っている。麻理江が遠くから「廊下は走らない!」と叫び、走っていない二人が同時に足を止めた。
 夜、分局の屋上。風は冷たいが、星は近い。咲那は可視化板の残光を指でなぞり、今日の線と明日の線を重ねる位置を探した。指先の腹に、紙より柔らかい抵抗がある。そこに明日の“最初の一行”が収まる。――――――式を増やすより、人の呼吸を合わせる。明日は、そこから始めよう。
 氷室の壁に銀色の反射板を立てかけると、冷気の白い息が面で流れを変えた。翼は両手で角度を微調整しながら、「二度、下げて、半歩戻す!」と声に出して自分の手順を固定する。ことみが音叉を鳴らし、咲那は計器の針の震えを指でなぞった。針の振れ幅が、ひと呼吸ごとに小さくなる。
 「……今。そこ」
 咲那が囁く。翼が固めた角度は、計算値の二・七度に驚くほど近い。反射板に貼ったチョークの印が、白い霧の中でかすかな虹を作った。
 「机の上の計画じゃ、この虹は描けないね」
 翼の独り言に、ことみが小さく笑う。外では港の鐘が正午を告げ、人の足音が重なり合った。現場は今、この瞬間しかない。紙より早い世界で、三人の呼吸が合った。
 反発していた露店主には“現場メモ版”の図を渡した。矢印は最小限、写真は多め。言葉は短く、余白は広く。彼らが自分の店の上に重ね書きできるように。咲那が最後に付けた一文は、「ここで手を止めたら、皆が助かります」。読む人の主語を“皆”にすると、紙は人の側に戻ってくる。
 夕方、安定化したピラーの側で、班はコンビニ袋みたいな薄い紙に包んだ串団子を分け合った。噛むとみたらしが跳ね、翼のほっぺに着弾する。ことみがハンカチを差し出し、咲那は彼の頬についた琥珀色の線を、何事もないふうに拭った。その一瞬、彼の目がわずかに丸くなる。紙には書けない、現場の行間。
 夜、保育室から聞こえてきた子どもの歌声に、咲那は手帳を閉じた。「明日、少し寄ってみたいです」――――そう言うと、翼は即答した。「じゃ、朝一で!」。単純な返事は、単純な強さだ。紙の矢印より頼りになることもある。

 配属二週目。番号札の箱が軽くなった瞬間、星芽が小さくガッツポーズをする。ことみは窓口の内側から視線だけで『次、お願いします』を送る。声を張らずに回る日は、だいたい段取りが勝っている日だ。
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