左遷先は月運行局分局 ――追放ヒロインのスキルで、公務も恋も大逆転
第16話 『翼、じわっと溺愛』
善裕は会議の冒頭で『今日の決め事は三つまで』と宣言した。決められる数を減らすのは、優しさだ。決めたことを実行できる見込みが上がるから。
質疑応答の最後、麻理江が『条件は公平に。運用も、です』と静かに釘を刺す。沈黙のあと、数人が頷いた。議事録の最後に“わかりやすさに対する評価”の欄が増えた。
入札が終わった翌朝、分局は少し静かだった。仕事は山ほどあるのに、空気が柔らかい。翼は白板の前でストレッチをしながら、一日一ガシャーンの看板を横目で見た。今日は、やらないつもりだ――やるつもりでもある。彼の矛盾は、分局の可愛い資産だ。
ことみは“耳地図”を持ち直し、保育室で星芽の寝息を確かめる。小さく“すー、はー”。翼はそっと扉を支え、音が立たないように手で受けた。『ここで止まれる』を、家の中にも増やす。止まる場所が増えると、言葉が減る。言葉が減ると、白が増える。白が増えると、ことみの眉がゆるむ。
午前は、拡散幕の初期配置。翼はのれんの端を指一本だけ折り、布の皺を自分の指で慣らしていく。雑にやれば早い。丁寧にやれば、速い。丁寧のほうが、明日の速さが高い。ことみがそれを見て、『指の温度、ちょうどいい』と小さく言った。翼は耳まで赤くなり、ガシャーンはしなかった。
善裕は“戻り矢印”の丸を一つ増やし、翼の手元を見守る。「ここで止まれる」。丸の位置が良いと、合図は短くて済む。星芽が○を作って左右へ開いた。「みぎ、ぎゃく」。翼は返事の代わりに、のれんの埃を指で払う。埃を払うのに、十歩もかからない。十歩で済む仕事は、愛に向いている。
昼。ことみがメモをまとめていると、翼が白胡麻の飴を二つに割って差し出した。「食べる?」。ことみは『今日は二回まで』と笑ってから、半分を翼のポケットへ押し戻す。甘さは、共有で速くなる。共有は、溺愛の形。
午後、耳タイマーの調整。翼はことみの手元を見て、秒の数え方を真似た。『5→7→5』。数える声が小さく揃う。揃った声は、強い。強いけれど、壊さない。玲空が裏拍でチャイムを打ち、翼の指の動きが自然に中低の高さを取る。ことみが『その高さ、合ってる』と囁く。囁きは、翼の辞書に太字で入った。
現場の片隅で、亮浩が資料を抱えて立っていた。昨日の焦りは消えていない。翼は気づかないふりをして、のれんの縁をもう一度撫でた。丁寧は伝染する。伝染した丁寧は、焦りを上書きする。咲那は板帳に一行――『溺愛=丁寧の持続』。
公開ミニ講座。“拡散幕は家でも効くか”。翼は台所ののれんを例に、屈折の縞を指で解くやり方を見せた。ことみは耳で『鳴かない』の意味を短く補足。「息が詰まってるだけ」。咲那は可視化パネルの“現在”に『家でのれんON:白保全』と一行メモ。家は現場の練習。現場は家の延長。
終盤、翼の番が来た。一日一ガシャーン。彼は白板の横を通りすぎるとき、肘で看板に触れそうになって――止まった。止まった場所は、『ここで止まれる』の丸の上。ことみが気づいて、眉が少し笑った。止まれる速さは、愛の速さ。
港の端で、風が変わった。のれんが強く揺れ、拡散幕の端がほどける。翼は走らない。十歩で歩く。半歩戻して、角で一秒アイドル。指一本で折り返し、掌一枚で押さえる。『5→7→5』。玲空の裏拍。うまくいった瞬間が写真に残り、失敗の理由は横に小さく。ことみが『今』と囁く。囁きは、翼の背に入った。
監理官がちらりと覗く。「のれん、常設に?」。倖菜は朱で『仮設=改変ではない/撤去十歩』と一行。短い。短いから、通る。翼は看板に触れないまま、のれんの角をもう一度撫でた。丁寧が、彼の武器になっていく。
夕方、家ルール表の前で小さな更新。『白胡麻の飴は半分こ』の横に、ことみの筆で『温度は低め』と追記。甘さの溶けにくい温度は、指の温度に近い。翼はそれを見て、ポケットの飴を握り直した。ポケットの中で、愛が少しだけ溶けた。
夜の片付け。伏せ札を一枚ずつ拾い、テープの跡を指で温めて外す。跡を残さないのは、写真の白を守るため。白は読みやすさの貯金。貯金が増えると、焦りは遅くなる。遅い焦りは、事故にならない。翼は最後の札をしまい、鍵を一回転+半だけ回した。『いち、に、半』。声は小さい。小さいが、揃っている。
分局の灯が落ちる前、ことみが翼の袖を軽く引いた。「明日も、同じ高さで」。翼は頷き、白板の端に小さな丸を一つ描いた。『ここで止まれる』。止まれる場所が一つ増えるたびに、愛は速くなる。速いけれど、壊さない。
家ののれんが小さく揺れ、星芽は○を作って左右へ開いた。「みぎ、ぎゃく」。二語の間に、一拍。一拍が、恋の余白になる。咲那は板帳に二行――『溺愛=毎日の低温の丁寧』『高温は、まだ要らない』。次は自己修復。丁寧が、壊れを自分で直す。
翌日の朝礼で、翼は『持ち方』の講座を五分だけやった。のれんの端、伏せ札の角、リングの縁、白胡麻の飴。持ち方を丁寧にすれば、速さは壊れない。ことみは耳で拍子を刻み、『5→7→5』の呼吸に合わせて頷く。頷きは、最短の合図。
風が強くなった昼前、ことみの髪留めが外れかけた。翼は声を出さない。十歩で近づき、半歩戻って、一秒アイドル。指一本で髪留めを押さえ、掌一枚分だけ緩めてから留め直す。指の温度は低め。『温度は低め』――家ルール表の新しい一行が、指の中で生きた。ことみはありがとうと言わない。代わりに、『今』とだけ囁く。
亮浩が持ってきた修正仕様は、条文だけが太かった。翼は条文を白板の横に貼り、写真の白を横に並べた。条文は文字、白は読みやすさ。二つを並べると、条文は短くなる。短くなった条文は、通る。亮浩は『すみません』を短く言い、翼は『どういたしまして』を短く返す。短い言葉は、長い合意。
ことみは耳の疲れが出やすい日だった。翼は気づいた。チャイムの位置を低めに下げ、裏拍の回数を減らす。翼の判断は、家の練習の副産物。副産物が、今日の本編を助ける。ことみは気づかないふりをして、白板の端に小さな丸を一つ描いた。『ここで止まれる』。
夕暮れ、屋台の子が泣きそうになり、翼が屈んで目線を合わせる。『ここで止まれる』と丸を指で作り、星芽が○を作って左右へ開く。「みぎ、ぎゃく」。二人の合図が重なった瞬間、子の呼吸は5→7→5に合った。合った呼吸は、泣き声を笑いに近づける。ことみは少しだけ肩を落とし、安堵を吸った。
夜、分局の前。鍵を回す手つきが重なり、一回転+半の拍子が揃う。翼が『明日も、同じ高さで』と先に言った。ことみは頷き、のれんの裾を指一本だけ折ってから、そっと戻す。折った跡は残らない。残らない跡は、白を太くする。白が太くなると、恋の余白が増える。
帰り道、翼はポケットの飴に触れた。溶けかけの甘さは、低温でちょうどいい。高温はいらない。じわっと、でいい。彼は白板の前にもう一つ小さな丸を描いた。丸は誰にも見えない位置だが、朝いちばんに来た人は、必ずそこを跨ぐ。見えないところに正しい向きを置く――それが、溺愛の作法。
家に戻ってから、翼は気づいた。昼に緩めた髪留めは、夜もずれなかった。一度だけ丁寧に直した結果、ことみの仕草が少し変わり、乱れに自分で指が先に届くようになっていた。自己修復。人の体が、場の癖を覚える。覚えた癖は、明日の事故を小さくする。翼は胸の中で『続きへ』と呟き、ポケットの飴を一つ、朝の自分に残した。
分局ののれんが夜風に一度だけ揺れた。揺れは小さい。小さいけれど、拍子がある。拍子のある家は、壊れにくい。
翼の優しさは派手ではない。傘を差し出すのではなく、自分の肩をそっと半歩ずらすだけ。その半歩で、咲那は濡れずにすむ。じわっと、という形容は正確だ。
質疑応答の最後、麻理江が『条件は公平に。運用も、です』と静かに釘を刺す。沈黙のあと、数人が頷いた。議事録の最後に“わかりやすさに対する評価”の欄が増えた。
入札が終わった翌朝、分局は少し静かだった。仕事は山ほどあるのに、空気が柔らかい。翼は白板の前でストレッチをしながら、一日一ガシャーンの看板を横目で見た。今日は、やらないつもりだ――やるつもりでもある。彼の矛盾は、分局の可愛い資産だ。
ことみは“耳地図”を持ち直し、保育室で星芽の寝息を確かめる。小さく“すー、はー”。翼はそっと扉を支え、音が立たないように手で受けた。『ここで止まれる』を、家の中にも増やす。止まる場所が増えると、言葉が減る。言葉が減ると、白が増える。白が増えると、ことみの眉がゆるむ。
午前は、拡散幕の初期配置。翼はのれんの端を指一本だけ折り、布の皺を自分の指で慣らしていく。雑にやれば早い。丁寧にやれば、速い。丁寧のほうが、明日の速さが高い。ことみがそれを見て、『指の温度、ちょうどいい』と小さく言った。翼は耳まで赤くなり、ガシャーンはしなかった。
善裕は“戻り矢印”の丸を一つ増やし、翼の手元を見守る。「ここで止まれる」。丸の位置が良いと、合図は短くて済む。星芽が○を作って左右へ開いた。「みぎ、ぎゃく」。翼は返事の代わりに、のれんの埃を指で払う。埃を払うのに、十歩もかからない。十歩で済む仕事は、愛に向いている。
昼。ことみがメモをまとめていると、翼が白胡麻の飴を二つに割って差し出した。「食べる?」。ことみは『今日は二回まで』と笑ってから、半分を翼のポケットへ押し戻す。甘さは、共有で速くなる。共有は、溺愛の形。
午後、耳タイマーの調整。翼はことみの手元を見て、秒の数え方を真似た。『5→7→5』。数える声が小さく揃う。揃った声は、強い。強いけれど、壊さない。玲空が裏拍でチャイムを打ち、翼の指の動きが自然に中低の高さを取る。ことみが『その高さ、合ってる』と囁く。囁きは、翼の辞書に太字で入った。
現場の片隅で、亮浩が資料を抱えて立っていた。昨日の焦りは消えていない。翼は気づかないふりをして、のれんの縁をもう一度撫でた。丁寧は伝染する。伝染した丁寧は、焦りを上書きする。咲那は板帳に一行――『溺愛=丁寧の持続』。
公開ミニ講座。“拡散幕は家でも効くか”。翼は台所ののれんを例に、屈折の縞を指で解くやり方を見せた。ことみは耳で『鳴かない』の意味を短く補足。「息が詰まってるだけ」。咲那は可視化パネルの“現在”に『家でのれんON:白保全』と一行メモ。家は現場の練習。現場は家の延長。
終盤、翼の番が来た。一日一ガシャーン。彼は白板の横を通りすぎるとき、肘で看板に触れそうになって――止まった。止まった場所は、『ここで止まれる』の丸の上。ことみが気づいて、眉が少し笑った。止まれる速さは、愛の速さ。
港の端で、風が変わった。のれんが強く揺れ、拡散幕の端がほどける。翼は走らない。十歩で歩く。半歩戻して、角で一秒アイドル。指一本で折り返し、掌一枚で押さえる。『5→7→5』。玲空の裏拍。うまくいった瞬間が写真に残り、失敗の理由は横に小さく。ことみが『今』と囁く。囁きは、翼の背に入った。
監理官がちらりと覗く。「のれん、常設に?」。倖菜は朱で『仮設=改変ではない/撤去十歩』と一行。短い。短いから、通る。翼は看板に触れないまま、のれんの角をもう一度撫でた。丁寧が、彼の武器になっていく。
夕方、家ルール表の前で小さな更新。『白胡麻の飴は半分こ』の横に、ことみの筆で『温度は低め』と追記。甘さの溶けにくい温度は、指の温度に近い。翼はそれを見て、ポケットの飴を握り直した。ポケットの中で、愛が少しだけ溶けた。
夜の片付け。伏せ札を一枚ずつ拾い、テープの跡を指で温めて外す。跡を残さないのは、写真の白を守るため。白は読みやすさの貯金。貯金が増えると、焦りは遅くなる。遅い焦りは、事故にならない。翼は最後の札をしまい、鍵を一回転+半だけ回した。『いち、に、半』。声は小さい。小さいが、揃っている。
分局の灯が落ちる前、ことみが翼の袖を軽く引いた。「明日も、同じ高さで」。翼は頷き、白板の端に小さな丸を一つ描いた。『ここで止まれる』。止まれる場所が一つ増えるたびに、愛は速くなる。速いけれど、壊さない。
家ののれんが小さく揺れ、星芽は○を作って左右へ開いた。「みぎ、ぎゃく」。二語の間に、一拍。一拍が、恋の余白になる。咲那は板帳に二行――『溺愛=毎日の低温の丁寧』『高温は、まだ要らない』。次は自己修復。丁寧が、壊れを自分で直す。
翌日の朝礼で、翼は『持ち方』の講座を五分だけやった。のれんの端、伏せ札の角、リングの縁、白胡麻の飴。持ち方を丁寧にすれば、速さは壊れない。ことみは耳で拍子を刻み、『5→7→5』の呼吸に合わせて頷く。頷きは、最短の合図。
風が強くなった昼前、ことみの髪留めが外れかけた。翼は声を出さない。十歩で近づき、半歩戻って、一秒アイドル。指一本で髪留めを押さえ、掌一枚分だけ緩めてから留め直す。指の温度は低め。『温度は低め』――家ルール表の新しい一行が、指の中で生きた。ことみはありがとうと言わない。代わりに、『今』とだけ囁く。
亮浩が持ってきた修正仕様は、条文だけが太かった。翼は条文を白板の横に貼り、写真の白を横に並べた。条文は文字、白は読みやすさ。二つを並べると、条文は短くなる。短くなった条文は、通る。亮浩は『すみません』を短く言い、翼は『どういたしまして』を短く返す。短い言葉は、長い合意。
ことみは耳の疲れが出やすい日だった。翼は気づいた。チャイムの位置を低めに下げ、裏拍の回数を減らす。翼の判断は、家の練習の副産物。副産物が、今日の本編を助ける。ことみは気づかないふりをして、白板の端に小さな丸を一つ描いた。『ここで止まれる』。
夕暮れ、屋台の子が泣きそうになり、翼が屈んで目線を合わせる。『ここで止まれる』と丸を指で作り、星芽が○を作って左右へ開く。「みぎ、ぎゃく」。二人の合図が重なった瞬間、子の呼吸は5→7→5に合った。合った呼吸は、泣き声を笑いに近づける。ことみは少しだけ肩を落とし、安堵を吸った。
夜、分局の前。鍵を回す手つきが重なり、一回転+半の拍子が揃う。翼が『明日も、同じ高さで』と先に言った。ことみは頷き、のれんの裾を指一本だけ折ってから、そっと戻す。折った跡は残らない。残らない跡は、白を太くする。白が太くなると、恋の余白が増える。
帰り道、翼はポケットの飴に触れた。溶けかけの甘さは、低温でちょうどいい。高温はいらない。じわっと、でいい。彼は白板の前にもう一つ小さな丸を描いた。丸は誰にも見えない位置だが、朝いちばんに来た人は、必ずそこを跨ぐ。見えないところに正しい向きを置く――それが、溺愛の作法。
家に戻ってから、翼は気づいた。昼に緩めた髪留めは、夜もずれなかった。一度だけ丁寧に直した結果、ことみの仕草が少し変わり、乱れに自分で指が先に届くようになっていた。自己修復。人の体が、場の癖を覚える。覚えた癖は、明日の事故を小さくする。翼は胸の中で『続きへ』と呟き、ポケットの飴を一つ、朝の自分に残した。
分局ののれんが夜風に一度だけ揺れた。揺れは小さい。小さいけれど、拍子がある。拍子のある家は、壊れにくい。
翼の優しさは派手ではない。傘を差し出すのではなく、自分の肩をそっと半歩ずらすだけ。その半歩で、咲那は濡れずにすむ。じわっと、という形容は正確だ。